例えばそれは、『蛍の光』が流れる閉店間際の本屋の一画だった。
『一人で始める園芸入門』『一人で出来る映画監督』『一人で学ぶマナーの世界』。
一人で始める。一人で出来る。その言葉の前で私は身動きが取れなかった。
佇む私の背中で『蛍の光』のボリュームが一段階上がった。
アルバイトだろうか。背の高い痩せた男性店員が、
メタルフレームのめがねのつるを僅かに震わせながら、そっと私の肩を叩いて言った。
「申し訳ございませんが、閉店のお時間です」
不意を突かれた私は、つい反射的に答えたのだ。
「私のことでしょうか?」
すると彼は1秒ほど間をあけてから、ゆっくりと言った。
「あなたのことです」
「あなたの、ことなんですよ」
あなたのことなんですよ-。
その声はいつまでも、私の中で消えることはなかった。