LABO

極私的・現代演劇アーカイヴ
▼岸田戯曲賞選評補完

update 2019.01.15

岸田戯曲賞を主催する白水社のウェブサイトには、各年の候補作と受賞作およびその選評が掲載されていますが、第43回(1999年)以前の選評は未掲載です。
当ページでは、未掲載選評の一部を原典より転載いたします。一部とするのは、法律に定められた引用の範囲内に留めるためです。

〈引用のルール〉
・原則として、受賞作品に言及した評言のみを掲載(該当作なしの場合を除く)
・引用の分量は全体で、原典の三分の一以下。
・引用部は「」で括り、文言の省略をする際には~を使用して示す。
・出典を明記する。


第01回(1955年) ~ 第10回(1964年) /  第11回(1965年) ~ 第20回(1976年)

第21回(1977年) ~ 第30回(1986年) /  第31回(1987年) ~ 第42回(1998年)


第31回(1987年)
該当作なし

選考委員
     評言     
井上ひさし
「正直に云ふと、ここ十何年間、新しい人たちの武器になつてゐたある基本的枠組に飽きてしまつたのではないか。ある基本的枠組みとは、例の恣意的連想やイメージ増殖や言葉の尻取りなどによりかかつた主観主義である。そしてこの手法の忠実な下僕である終末思想。この手の戯曲には食傷した。もつと強引にたつた一人で全世界で堂々と立ち向かひ、堂々と敗れ去る作家が出てきて欲しい。」
唐十郎
「張りついてくるような劇空間の一瞬はなにかと言えば、この場合、戯曲を読むことで演じられるかもしれないその場面を想定するのだが、私には、市堂令さんの『いつか見た夏の思い出』における「森」への侵入が忘れられない。もう一本は、生田萬氏の『かくも長き快楽』に於て、科学諸々ファイル帳が紛失されてから、歳をとらないことにきめたとむずかる男のおかしさが印象を残す。」
佐藤信
「「コンセプト」という外来語をしきりに耳にするようになったのは、いつ頃からのことでしょうか。いまや、「コンセプトの時代」なのだそうです。ものそのものよりも、それにまつわる「コンセプト」の方が重要視される時代。」
「もちろん、ごく広い意味でいえば、戯曲は芝居の基本的な「コンセプト」でもあります。しかしそれ以前に、戯曲がひとつの言語表現である以上、戯曲は戯曲としての何らかの意味での自立性を確保してる必要があります。」
「「コンセプトの時代」に、オリジナリティとは、案外「作家が身を隠す場所」の選択に関わっているのではないでしょうか。」
清水邦夫
「〈受け入れられた人生のなかには、人生より以上の何ものかがある〉ということばがあるが、この逆もまたいえそうである。〈受け入れられなかった人生のなかには、人生より以上の何ものかがある〉いずれにせよ、ここいらへんでドラマはつかまえられてきたし、想い出も語られてきたような気がする。こんどの候補作品を読んで、ことさら想い出というものにこだわってみれば、そのきりっとした選択がいささかあいまいな作品が多かった。」
「鴻上尚史氏の『ハッシャ・バイ』は、探偵と依頼人のヒロインのカンケイがえんえんとあやうく続いていくところに、新鮮なエネルギーと作者の力量を感じた。そのことを発言したが、ほかの委員の賛同をあまりえられなかった。この作品以前のスタイルの方がいいという声もあったが、ぼくはこのスタイルをおしすすめられることを望みたい。」
田中千禾夫
「生きていることの不安、更には普遍的な不安に向かって、夫々、轡を並べて若武者達が発進する。願わくは、芯にあるリアリティを踏まえることを念頭に置いて欲しい。問題は、肯定ではなく、不安の克服である。あらゆる手段方法を駆使する術は既に諸君の手の中にあるのだから。」
別役実
「私は今回、最終的に「受賞作なし」に賛成したが、八本の候補作の中では、市堂令の『いつか見た夏の思い出』に一番好感を持った。構成にも難があり、ことさらに力の入った作品でもないのだが、一読して何やら、さわやかな詩情のようなものを感じとったからである。集団創作だということもあり、演劇を取り扱う手つきを問題にすれば、単なる「演劇ごっこ」の観がないでもないのだが、そうした素朴な装置の上に、自然にこの種の詩情を漂わせることが出来たのは、やはり、かなりのことに違いない。「遊び」の精神が、極めてバランスよく開発されつつある印象を持った。もしここに、詩情を詩情たらしめる方向性が与えられていたら、私はこれを受賞作とすることに、ためらわなかったであろう。」
八木柊一郎
「今年の¨受賞作なし¨は、そういう年も当然あると云ってしまえばそれまでだが、私としては数年来注目してきた市堂令作品がここへきて一種の下降現象をしめし、受賞作に推し得なかったことが、少し大げさに云えば不吉な感じがした。」
「もともと私は、市堂令作品には集団創作という感じがなく、ひとりの作者によるすぐれた文体をみとめてきただけに、市堂令のなかから実際にひとりの作者が再生してくることを期待せざるを得ない。」
矢代静一
〇市堂令『いつか見た夏の思い出』
「とめどもない言葉の遊戯の連続で、どうでもいいおしゃべりが、たのしく読めた(もしくは聞けた)。日常性を逆手にとって、そこから抒情とユーモアの劇的空間を造り出していたので、私は受賞作として推した。」
〇鴻上尚史『ハッシャ・バイ』
「自閉症のアイロニィとでも言った形容句が読後やってきた。機知(やや軽いが)と幻想(ややひとりよがりだが)のある台詞は、この年若い作者の才能の開花を感じさせる。」
〇生田萬『かくも長き快楽』
「感覚やフィーリング過剰で、ナンセンスの芝居なら、もう少し大人のナンセンスが欲しかった。私はこの劇の内部に入りこもうと努力したが、ついて行けなかった。」
〇和田周『上演台本』
「もう一件、きちんとしたものを書いてもらい、読ませてもらったあとで、この作者については論じたい。」
山崎正和
「最終選考に残った生田萬、市堂令、鴻上尚史、和田周の諸氏の作品は、いづれも感傷性すれすれの抒情詩的イメージに満ち、それを支へる、あるいはその照れ臭さに耐へるための、苦心の趣向がこらされている。ただ、そのうち和田氏の作品を除いて、どの場合も、イメージの集合が積み上げに到らず並列に終り、演劇的な緊迫感を欠いて、冗長の印象を与へるのが残念であった。」
『新劇』昭和62年/1987年3月号選評掲載





第32回(1988年)
『ゴジラ』
大橋泰彦

選考委員
     評言     
井上ひさし
「わたしたちはみんな、ゴジラについての物語をそれぞれもっているのである。作者はそのゴジラに恋をさせた。それも清純な恋物語の主人公に据えた。この仕掛けは非凡である。」
「悪びれず堂々とほがらかに、そして細心の工夫をもって作者は開かれた系をつくり出した。わたしたちはその中へよろこんで吸い込まれて行く。卓抜の趣向であった。」
唐十郎
「~このゴジラをガリバーと読めば、しっくりいかないことはないのだが、一回性の絵解きで完了してしまうところに、魅力ある破たんをこの作家は抱くことがないのではないかと案じる。」
佐藤信
「青天の霹靂、ゴジラである。ゴジラって、なんだかとってもチャーミング。なぜか?ゴジラは「私」ではないからだ。おおくの「私」探しドラマが悪戦苦闘するなかで、この単純明快さが意表をついた。大橋泰彦さん、おめでとう!」
清水邦夫
「~受賞作の大橋泰彦氏の『ゴジラ』は際立って面白い作品であった。しかし、ある意味ではきわめて型通りに運んでいる作品で、その点で推せんしなかった。しかしこれはもっと衝撃的な作品を生み出す予兆とすれば、この受賞には不満はない。」
田中千禾夫
「~然し彼は、とてつもなく優しい。人間よりも遙かに純情である。而も三原山が噴火を堪えて我慢しているように情熱家である。これが作品をして三原山を土台に取材させ、この作品を活かし得た理由であろう。そしてこれは悲劇でなく喜劇である。請うならば漫画調の大らかな愉しい喜劇である。」
「前にも言ったが、私には、漫画の大写しを見るように、愉しく、面白かった。演出では、パフォマンス芸術の一典型を現出させたであろう。」
別役実
「この作品を「ひとつのアイディアの勝利に過ぎない」と言えば、そう言えないこともない。しかし、この意表を突くモチーフをもて余すことなく、それなりにこなした手腕には並々ならぬものがあるし、何よりも「ゴジラ」という奇妙な文明の所産を、ありきたりの文明批評を通じて解説するのでなく、まさしく演劇として「登場せしめた」という点に、アナーキーな力を感じとることが出来た。」
八木柊一郎
「それにしても、『ゴジラ』の大橋泰彦の作者ぶりは、あっけらかんとしたもの。假面というなまやさしいものではなく怪物の縫いぐるみをいきなり着てしまった。ジェシカ・ラングがデビューした映画『キングコング』とモチーフが全くおなじなのだが、最後までおもしろく読めたのは作者の芸の細かさ以外に、美女と野獣という幻想の普遍性にだまされつつという面がある。その幻想がなぜいまだに有効なのかよくわからないが、まだ有効らしいと感じさせてくれるものが『ゴジラ』にはあったということだろうか。」
矢代静一
「一読して面白いと思ったが、見送った。ところが受賞作、又は佳作として推す委員が選考間際になって次々に現れたので、正直言っておどろいた。しかし、考え直してみると、意外のようで意外でない。」
「この作品は笑劇(ファルス)のジャンルに入るものだ。そして、ファルスを一段低い芸居だときめつけている人が日本には多いが、そんなものではない。ファルスの持っている笑いの無償性というものは、ドラマのエッセンスの一つなのである。私が受賞作として推さなかったのは、こういった傾向の作品は、岸田賞に向かないのではないかと、自己規制したせいだ。若いころの自分の作品を思い出して、「去年の雪いずこにあるや」という想いだった。精進を祈ります。」
山崎正和
「~寓話的な物語を枠組として借り、そのなかでテーマを語らうとする点で、むしろ伝統的な作劇法に帰ってゐるといへる。ただ、その枠組みの寓話の借り方が、過去の作家にくらべてはるかに臆面なく、しゃあしゃあと作劇遊びを楽しんでゐるという印象を与へるところが、新風とゐへるだろう。結局、その臆面のなさにおいてより徹底しており、また、せりふが洗練されてゐることを買って、私は『ゴジラ』を佳作として推したが、委員の多数意見によってこれが受賞作となった。」
「~一種の素朴さへの回帰の兆しが見られるのであるが、これがつぎに何を生み出すか興味をそそられる。」
『新劇』昭和63年/1988年3月号選評掲載





第33回(1989年)
『蒲団と達磨』
岩松 了

選考委員
     評言     
井上ひさし
「登場人物たちがたがいに相手役を通して観客席に語りかけることに成功した場合にのみ、その台詞は「劇的」という名の王冠をかぶる。――そしてこれが劇の基本というものなのだ。」
「岩松了氏の『蒲団と達磨』はこの普遍文法を駆使して書かれた傑作である。一見、平凡筆致で描かれているが、その台詞が相手役を介して、客席へ伝わると、すべてが非凡な輝きを帯びる。すべての劇を客席でおこすという奇蹟がここではみごとに成就している。」
唐十郎
「~岩松了の『蒲団と達磨』が冷ややかな光を放つ。別役実は、在って然るべき写実を説いたが、この中産階級の、至ってつまずきがちな写実は、神経が一本切れた眼の中に、増幅される家庭の光景である。現実を見ることが出来ない人々の集まりというものは、こうした家庭のことのようでもある。 気の違った久保万太郎芝居と言ってもよいだろう。」
佐藤信
「受賞作に脱帽。読み終わったあとに、「もそり」とした怖さの残る作品ですが、それを支えているせりふの切れ味のするどさ(時枝さんとか、コンちゃんとかの沈黙も含めて)が、また凄い。上演とは別に、読み物としての一読を是非、おすすめします」
清水邦夫
「いい意味での余白の多い作品で、その余白をどうするか、どう空想力を働かせるかによって評価が違ってくる作品のような気がしました。しかし考えてみれば、それがすぐれた戯曲のもっともあるべきたたずまいかも知れません。」
田中千禾夫
※受賞作品に対する言及なし。
別役実
「今回の候補作の中では『蒲団と達磨』がずば抜けてよかった。対話文体として、全く新しいものを樹立した作品と言っていいであろう。」
「つまりこの作品は、岸田國士以来の「写生劇」の伝統を踏まえた不条理劇なのである。」
「彼には、日常的なあらゆる音の中から、或る音域の音だけを選択的に聞き取る能力があるのであり、それらを組み合わせることにによって、一見して日常的でありながら決してそうではない、或る奇妙な状況をつむぎ出すのである。」
八木柊一郎
「~とりわけこの新作は堂々とした戯曲になっている。堂々としたという云い方は逆説めくわけだが、中年夫婦とその親戚や知人を描くトリヴィアリズムが岸田國士や久保田万太郎の文体に通じるような結果を表出しているのである。私としては、岸田、久保田の戯曲とは似て非なるものと最初から思っていたが、選考委員は一様にそのアナロジイを不思議がった。」
矢代静一
「『蒲団と達磨』は、殆ど満票に近かった。最初の方を読み進めながら、ちょっと岸田國士先生の作品を耽想したが、ちゃんとひとひねりしてある。変な言い方になるが、なんにもない文体で、そこが見事だった。事件はなにほどのことも起らないみたいに進行して行くが、登場人物たちの心の中には葛藤がある。そこいらあたりの作者の詐術に乗せられた。」
『新劇』平成1年/1989年3月号選評掲載





第34回(1990年)
該当作なし

選考委員
     評言     
井上ひさし
「今回の候補作でいえば、鴻上尚史、横内謙介、佐久間崇、鈴木聰、鈴江俊郎、吉田秀穂の諸氏の諸作が、入りやすい入路を設定している。しかし、いずれも構造が甘く、案外に常識的な展開と結末、思いつきの断片の恣意的な挿入、ありふれたギャグや言葉遊びの濫用、昭和史についての根本的な歴史的意識の欠落――と、総じて彫りが浅いように見受けられた。その中では、神田界隈の小出版社の春秋を、年表的出来事を遠景としてまぶしながら、意識して淡々と素朴に天綴した佐久間氏の『イエスタディ』が一頭地を抜いているように思われた。」
唐十郎
「私は今、「繊毛」の在り様について、いくつかの選考作品を巡ぐりに想起していましたが、多分に予定調和的な「苦さ」をベースにして、あらわれて見える「繊毛」が、ワンダーランド、昭和の俯瞰、あるいは固着と浮遊などの二項対立に向かって、平均的に心優しく、なびかかっている風潮のみを発見するだけの感を持たざるをえないのです。」
「これに比べると鈴江氏の作品は、ぶっきらぼうに中断した格好ですが、なんとも形容しがたく、何者やか分からない人物が、おさまりのつかない独自圏をふらふらしている ところが鮮やかに記憶に残るのであります。また鈴江氏の作品に於て、「他人」は、まるで影絵であり、それがどう四角い独自圏に接近しようと、 介入不能であるということが、めざましくもあり、弱点でもあるような気がします。」
佐藤信
「「受賞作なし」の結論に残念ながら同意。ただし四人からは、「だったらお前、芝居を書いてみな!」とおおいに挑発された。手ぐすねひいて待っていて下さい。」
田中千禾夫
「戯曲に於ける文学性と演劇性(舞台性)の問題は、観念だけでは捕えられないから、ここが小説などの散文とは異なるところで、甚だ厄介だ。ところが寡聞ながら、私の知る限りだが、当今の戯曲は、観念的な物が多いような気がしていた。ところへ、佐久間君の『イエスタディ』に逢えた。
これは、平凡な日常生活を、何の奇も無しに、平凡に描出した写実的な作品である。この「平凡」ということが私の心を打った。前述の「演劇性」の点では、或いは問題があるかもしれないが。そこは、「問題」を抱く者の主観に任せるより他はあるまい。」
別役実
「九本の作品の中で私が最も高く評価したのは、『区切られた四角い直球』である。これは高校生の息子とその母親との、極めて何気ないひとときの時間の経過を、息子の学校その他の場所における断片的なイメージをフラッシュバックさせながら描写したものであり、簡潔で必要最小限の科目とイメージで、「日常性」という言ってみれば「得体の知れない様態」を確かめているという意味で、見事であった。」
「しかし、作品としては、如何にも小品であり、演劇性も余りにも「かすか」であるという意味で、受賞作としては押せなかった。」
八木柊一郎
「候補九作のうち、もっとも確かな手ごたえを感じたのは。鈴江俊郎の『区切られた四角い直球』であった。だが、あまりにも小品である。小品しか生めない感覚とモチーフの産物だと一応いけるけれども、必らずしもそうではないかも知れない。この作者のもうすこし大きい戯曲を見たいと思う。」
矢代静一
「はじめ受賞作に横内謙介氏を推したが、私一人だけだった。但し、『ジプシー・千の輪の切り株の上の物語』の方は、抒情過多で、メルヘン風の善意が露呈しすぎていて首をかしげた。日常世界に非日常が侵入する発想はめあたらしいものではない。『ヨークシャーたちの空飛ぶ会議』のほうがよかった。 『ジプシー』よりも感傷的ではなく、透明だった。」
「この年若い作者は以前の作品に比べて、いよいよ達者になったが、その分だけ深みが薄れて行く危なさがある。優しさを売物(好きな言葉ではないが)にしているように見えるのも気になる。一層の精進を望む。」
『新劇』平成2年/1990年3月号選評掲載





第35回(1991年)
『ブレスレス ゴミ袋を呼吸する夜の物語』
坂手 洋二

選考委員
     評言     
井上ひさし
「~ゴミを蝶番にして世界の価値をすっかりひっくり返してしまったのは、まことにあざやかな力業だ。台詞にはやや偽善の匂いがし、諧謔も微温的で、 また扱われている題材も際物(きわもの)、これまた瑕が多いけれども、よくできた構造がこれらの瑕をみごと魅力に変えてしまった。 やはり戯曲は構造が大切だ。」
唐十郎
「この作家にとって、書くべき「対象」はどこに逃げたか、なぜ、易々と、それが雲隠れすることに甘んじるのか、 などということが、戯曲を読む時の、「書き方」を追う興味でもある。」
「~時には、戯曲上にあったテーマの変形、テーマの逃走を、読む側の目が追いかける。」
「『ブレスレス』は、ビルの谷間のゴミ置場以外のことは何もなく、そこを訪れる人々は、他になんの楽しみもないのかと問いたくなる程の、 やや偏執すれすれの集中力によって、作家に押し出された<つじつまの合わない者>たちである。 その蠱動感は、坂本弁護士という人物の設定に、やや出来そこないを感じさせるものの、読む者に、その場に行ってみたい衝動を起こさせる。」
佐藤信
「~今回は、とりあえず作者のオリジナリティという一点に絞っての評価と支持ということになります。」
「~とにかく長すぎる(『ブレスレス』)とか、~不満をいえばきりがないのですが、しかし同時に、どうしてもそうしなければならなかったという、 作者一人ひとりの必然もたしかに伝わってきたのです。」
「~戯曲の完成度という意味ではもっとも破綻の多い坂手洋二さんの『ブレスレス』の受賞は、候補者たちと同じように、孤立し、悪戦苦闘をづづける現場の劇作家たち からの、現在の演劇状況へのひとつの批評のあらわれという意味で、ぼくにも異存はありません。ゴミ袋の中に首を突っ込んで、一所懸命息を吸いつづけた坂手さんの次回作を 期待しています。」
田中千禾夫
「この作者は、この袋に大いな関心を寄せたが、これは、廃棄物に対する当代の一般の頭痛の種を基にして、これを解明した、ということになろうか。」
「~活字離れが云々される現代、こうして言葉の「文学性」が明示されるのに接すると、私など老輩は、有難うと言いたくなる。」
「坂手君は、私などには全くの初顔だが、常連を尻目に今回を基にして、益々、筆を磨いていただきたいとお願いする。」
別役実
「~『ブレスレス』の方は大いに荒けずりで、難を言えばきりがないほど難があるのだが、正面から腕力で演劇そのものと格闘をしているというところがあり 、近ごろめったに見られなくなったその力業に共感せざるを得ないところがあった。久しぶりに、文字通りの「力作」と言えるものであり、今後演劇は このようにしか動いていかないであろうと考えるが故に、受賞作とせざるを得なかったというところがある。」
「物理的にこの作品は「長すぎる」のであるが、その「長さ」が、形としてスクッと立上ってしかるべきものがそうならず、いたずらに悪あがきしていることを 物語っている。」
「もちろん、そのための悪あがきが、この作品の魅力のひとつにもなっているのだが……。」
八木柊一郎
「受賞作になった『ブレスレス』は、演劇台本としては、鄭、生田、鴻上、内藤などの作品からそれほど 抜きん出ているわけではない。だが、演劇行為への欲望と表現者としての根源的な衝動とが一体になっている点では際立っていた。 両者のバランスの問題ではなく、お互いがお互いをどうしても必要としたという実感がすくなくともわたしにはつたわってきたのである。」
矢代静一
「ゴミ置場が場となって、さまざまなカップルの群像が活躍する。力量のある人だが、長すぎる、もっと整理したら、読者への暗示の効果が強まって、作者の 現代に対する問いかけが鮮明になったことだろう。」
『しんげき』平成3年/1991年3月号選評掲載





第36回(1992年)
『愚者には見えないラ・マンチャの王様の裸』
横内 謙介

選考委員
     評言     
井上ひさし
「~『……ラ・マンチャの王様の裸』での、ラ・マンチャの騎士と裸の王様とを 同次元で捌くときの作者の思量の深さ。」
「さんざん思い悩んだ末、評者は『……ラ・マンチャの王様の裸』の思量の深さに票を投じた。」
太田省吾
「~横内謙介さんの『愚者には見えないラ・マンチャの王様の裸』の良さを、他の委員諸氏ほどには理解することができなかった。二人受賞 の一人としては異存なかったが、一人なら鄭義信さんの方だと考え、そのように投票した。」
「演劇表現をどのようなものとして考えられ取り組まれているのか、現在の演劇にとってのなにか強い疑問や実験を見たい。 候補作を読み出す時、私はそのような望みをもって読みはじめたが、この望みは満たされなかった。
 とすると、と私が立てた基準は台詞の力だった。台詞に良し悪しがあるのか、そんな言葉すら聞こえてきそうな、台詞への 不信状態がある。」
「横内さんは、妄想の<王様>という枠を設らえて現在の言語風俗から離れることによって台詞の言葉を確保しようとしているし、 鄭さんは、そのような枠なしに、ストレートに現代の台詞の可能性を探ろうとしている。」
岡部耕大
「音楽とちがって、高校演劇には監理者がことのほかきびしいらしい。それは演劇には゛毒゛があると監理者敏感に気づいているからでしょう。」
「゛恨み゛゛反逆゛゛性゛゛功む゛゛攻撃゛、そういった監理者の欄にさわるものは、書き手の意識無意識にかかわらず排除されている。 たまに、それでも排除され沈殿したことばが浮上しようともがいている舞台がある。」
「「ナツヤスミ語辞典」「愚者には見えないラ・マンチャの王様の裸」には、 あらかじめなにかを放棄したところから始まったものを感じました。悪ガキの顔が見えない。」
「横内謙介さんは、もっと悪意に満ち満ちた本を書く人ではないのでしょうか。もし、このおぼっちゃまぶりが岸田賞までの戦術戦略であったとするならば、 ぼくは拍手します。」
佐藤信
「単なる偶然かも知れないが、今年の候補作には劇を二重構成の上で成り立たせ、進行させようとしている作品が多かった。」
「~ぼくはそこにひとつの「傾向」を読み取り、それに対しての疑問をもった。ひとことで言えば、それは劇の現場としての劇場への不信ということだ。 劇場とはひとつの劇が他者(観客)と出会う場所であり、そのことによって無数の劇へと解放される場所でもある。 それが劇の現場としての劇場ということの意味であり、劇とはもともと劇場で演じられることによって、そのような二重構造を 本来的に強いられているものだ。」
「従って、戯曲の中にあらかじめ取り込まれた二重構造は、どんな場合にも「劇の自己言及」という側面がかならずある。」
「しかしそのことに無自覚な安易な二重構造(今回の四編は、残念ながらぼくにはそう読めた)は、結局 「劇の自己解釈」といった能動性のない予定調和として機能してしまう。」
田中千禾夫
「「リア王」を素地にしていて、日本の国劇にも「道化」はいないことはないが、こうカラッとしたもはないだろう。」
(選考会には欠席)
つかこうへい
「~横内謙介氏の「愚者には見えないラ・マンチャの王様の裸」は、タイトルが悪すぎる。」
「内容的にもあまりにもスタイルとして古いというか、誤解を恐れずに言えば「新劇」の域を出ておらず、ドンデンがえしの趣向の手腕の巧みさは 充分認めるとしても、校内暴力、精神病棟とたたみかけられると、そのほとんど楽天的なまでの展開の企みのなさにあきれはてたのが、正直なところ私の読後感だった。」
「~むしろこの企みのなさこそ彼一流の演劇に対する「決意表明」であり、現代への「挑戦」なのではないかと考え、最終的に授賞に賛成をした。」
野田秀樹
「生憎今年の候補作には、手放しで、絶賛するような身軽な作品は見あたらなかった。
 一見そうは見えても、明らかに時間をかけてないのが歴然なものもあり、僕のような軽業師の立場からすれば、身軽であるという職業をなめないでほしい、ケガするぜ、と忠告してあげたいものもあった。」
「~作品が身軽でないときは、作者が、どのくらいやせ細るほど手間暇かけて仕上げたか、その痕跡が残っているもの、 つまりマラソンランナーでいえば走り込んで、足の裏の皮が剥けるという、これみよがしな痕跡の見える、そんな人を推そう、と決めた。
 そこで、横内氏を推した。」
別役実
「~現在の学園の教師の立場を、「ドン・キホーテ」と「裸の王様」との葛藤に置きかえて把えようとしている点には、オリジナリティーがあるし、 観念的なものとは言え、或るドラマを作りあげることに成功している。そして何よりも、最終的にこの「ドン・キホーテ」と「裸の王様」が、 それぞれに否定され、打ちのめされている点が無視できない。」
「つまり、このことによってそれまでの葛藤が、すべて「不毛な空回り」であったと知らされるのであり、観念が消えて実体が浮上するという寸法である。 この作者の作品としては、全体の運びも稚拙で、伸びやかさに欠け、特に前半は、場面に生気の感じられないところが多いが、 にもかかわらずそれを敢て承知の上で、こうした観念的図式を論理化しようとした意欲には、好感が持てた。」
『しんげき』平成4年/1992年3月号選評掲載





第37回(1993年)
『ヒネミ』
宮沢 章夫

『魚の祭』
柳 美里

選考委員
     評言     
井上ひさし
「宮沢さんは、細部の面白さ、うまさというのはもう抜群の面白さがあると思いますね。それから、とても「哲学的」なこと、下らない具体的なことを扱いながら実は大変な哲学をやってしまうという、そういう優れた武器を持っている。細部がとても面白くて個性があるのに、全体の話ができたときにわりに普通の話になってしまうのはなぜか。ここを乗り越えること、そこに宮沢さんの将来があると思います。」
「『魚の祭』は、大衆性がある上に、しかも演劇的である。それと言葉一つ一つが、別役さんの言い方を借りれば、唾がついている。僕の言い方では、一つ一つの台詞に作者のハンコが捺されている。辞書から持ってきたのではなくて、何年間か自分の中で温めて、その人のオリジナルになった言葉をずっと紡ぎ出している。言葉が濡れているんですね。言葉についてのすごい才能を持っている。言葉については錬金術の才能をもっている作家なので、それさえ失わなければ、中のドラマに破綻があろうが、どう大衆的であろうが、難しく書こうが、良質の観客は、この人についていけると思います。構えが広い。おまけに効果のある演劇的時空間をすらすらと作ってしまう天与の才もあります。今回は水準が高かったと思いますが、その中で私は『魚の祭』を推しますね。」
太田省吾
「宮沢さんの場合は、自分で信頼できる物語というのかな、物語を書こうとすると、演劇的でないとか、ちょっと信じられないものになっていくと。けれども、存在の不確かさを彼は一番根元のところで感じていると思う。それを材料にすればここまで物語が書けるというところに踏み出している。これは小さくない問題だろうと思うんです。」
岡部耕大
「宮沢さんの『ヒネミ』は僕は好きで、これは地図を捜すというテーマはよくあるんでしょうけれど、読んでいて切なくなりました。きっと舞台も切ない舞台だったんじゃないかと思います。無国籍の地図ですよね、これ。」
「柳さんに関しては、皆さんおっしゃるとおりで、すごいのが今生まれつつあるなという感じです。」
佐藤信
「宮沢さんのうまさということについては異存がないんだけど、結局何が書きたかったんだということについて、作家としてのオリジナリティーが足りないという気がしたなあ。例えば、兄殺しというモチーフにしても、作家の内部でどこに定位しているものか、ついにつかめなかった。一種のエンドレスの構造なんだけど、それじゃあ、その劇構造が一つの何かを語っているかというと、ちょっと弱いよね。せっかくの石が降ってくる素晴らしいイメージも、あそこで繰り返されると、とたんに陳腐なものに見えてくる。読んでいる途中は大変に魅力的なものがあるんだけど、読み終わったあとに残るものがすごく希薄だった。」
「ダイナミックだとは思いますよ。幾つかの時間の層を空間的にどんどん行き来するという、演劇にしかできないダイナミズムを見事に捉えた作品だとは思うね。だから、可能性は僕もすごく感じるけれどもね。」
「柳さんについては、これだけ戯曲を書くというのが困難な時代に、自分の世界を優れた感覚でドンと突き出す作品を書くことができた。それはそれで、正統的なひとつの書き方だとは思うけれども、書き手としての感覚と書かれた世界のバランスの良さは、あくまでも偶然的なものだと思う。もう一本待ってみたいというのが、ぼくの意見です。」
田中千禾夫
欠席
つかこうへい
欠席
野田秀樹
欠席
別役実
「柳さんの場合は、皆さんおっしゃったように、才能ある人だと思いますね。書き方としてはオーソドックスなんですけども、台詞に力がある。僕はやはり西瓜を割るところでかなり感動したんです。あれで、例えば冬逢が死んだというイメージが演劇的に確定した感じがして、演劇的な成果はそれだけで大きいんじゃないかという感じがしました。」
「宮沢さんについては、好きという意味では一番好きな作品なんですけれども、構造的に書いていくとどうしてもストレスがたまっていって、後半ちょっと暴れたくなるんじゃないかなと思うんです。その暴れが全体の構成を乱したんじゃないかな。だから、後半の、ケンジが兄を殺したことを語るいきさつのあたりから、大分全体の構成が乱れたという感じがするんですね。それがなければ一番いいかなという感じがしました。」
平成5年/1993年2月・白水社刊『岸田戯曲賞ライブラリー ヒネミ/魚の祭』選評掲載(座談会方式)





第38回(1994年)
『ザ・寺山』
鄭 義信

選考委員
     評言     
井上ひさし
「台詞がすばらしい。「ああ、この作家は生涯で最高最良の台詞をいくつか書いているな」と思いながら読んだ。いい台詞がいくつも並ぶと、作者の仕込んだ演劇的企ても、おのずと分明になる。そしてそういう演劇的なるものはすべて良質で、それらをも堪能した。作者と寺山修司との距離の問題は微妙だが、しかし引用も作者の腕前のうち、あるいは引用こそ批評。そこにおいてもこの作品には光っているところが多い。」
太田省吾
「鄭さんの作品は、言葉の展開で場面をくるくる動かしてストーリーを運ぶというやり方をせず、場面を、人間の局面のある面からある面への展開という動きに抑制していることで、他の作品とのちがいをもっていると、まず思いました。そして、そこに鄭さんの演劇への意識的な力を感じました。」
「寺山さんが、死者の眼として働き、登場人物たちは、その眼の下で地域的社会的特殊性を越えた哀しみの主たちとして描かれたように感じました。」
岡部耕大
「鄭さんの風景は、好きな風景です。ぼくの原風景にも似ているような気もします。ごちゃごちゃとした風景のむこうに透き徹った海と青空がある、そんな感じの風景です。
『ザ・寺山』にも鄭義信さんの世界はあったが、もっとゴテゴテとしたペンキの原色になっていて、寺山が満艦飾になっていた。それに演出の佐藤信氏の筆も入って、ややこしくなった。」
佐藤信
「鄭義信はずばりと寺山得意の「偽物の自分史」に切り込んだ。いさぎよい戦術ではないか。東北の地方語に対しては関西の地方語、「J」や「李」という脱臼した固有名詞に対しては「ヤスシ」「修」「トモエ」という作為を隠した平凡な命名、レトリックのからくり細工に対しては蠅を食う男の体温と体臭。フライパンの上で悲鳴をあげる蝉と一緒に「不在の父」があぶり出され、あざやかな形象となって舞台を支配する。」
「脱出願望の彼方にある「むこう」への明確な断念が鄭にはある。それを通りいっぺんの悲哀ではなく、僅かユーモアを含んだ突き放した世界の群衆の中に描ききったところに、『ザ・寺山』の手柄がある。」
田中千禾夫
欠席
つかこうへい
欠席
野田秀樹
「受賞作の鄭氏の『ザ・寺山』にしても、ロケットを打ち上げる力は、故寺山修司氏の作品に負うところがあまりにも大きい。「引用や盗作も創作である」ということには異論を唱えないが、果たして引用により、打ち上げられたロケットが次の点火への力になりえたかどうか。」
「ただ候補作の中では、舞台に一番近いところにある戯曲だという感じがした。」
別役実
「作品の性格上、いくつかのイメージを寺山修司から持ちこんでいるが、にもかかわらずそれらを、このようにしなやかに組織だてたのは、やはり並々ならぬ手腕にほかならない。
従来の鄭義信の作品には、このような柔軟さと、逆の生硬さが混在し、それが思わぬエネルギー源となっていたり、また破綻となっていたりしたのであるが、この作品にはそれがなく、あたかも楽々と仕上がっている。」
平成6年/1994年3月・白水社刊『ザ・寺山』選評掲載





第39回(1995年)
『スナフキンの手紙』
鴻上 尚史

『東京ノート』
平田 オリザ

選考委員
     評言     
井上ひさし
「『スナフキンの手紙』(鴻上尚史)における物語展開の速度の凄まじさとその手続きのたしかさは、 相変わらずの名人芸だ。観客がその速度にすっかり酔ってしまったところを見澄まして、突如、突き付けられる 突拍子もなく志の高いメッセージ。この組合わせも作者の専売特許だが、この作品では それがこれまで以上にうまく行っており、鴻上式ドラマツルギーの一大集成の観がある。」
「平田形式とは、まず、現代日本語をアクセントや語順を中心に精密に分析して、その結果をはったりや 強調をできるだけ排して再構成することだ。」
「もう一つは、「行為」を描くことをいさぎよく 断念して、「状態」を描こうとし、それに成功していること。一見、演劇的なものをすべて排除しているかのようだが、 しかし、よく見るとそうではなく、「世界の在りようを力強く示す」、そして「人間の心の在りようを正確、 かつ細やかに示す」という演劇の勘どころをしっかりと押えてもいるのだ。」
太田省吾
「『東京ノート』にあらわれている平田氏の方法は、演劇が、何か結論めいたものを表現するためのものであり、 その結論への集約・統合性をもとうとする制度からの解放が目指されている。その解放のために忌避しなければ ならなかったものは少くなかったと推察できる。」
「方法意識の勁さとその成果を大いに感じた。――そこから見て、二〇〇四年という近未来や ヨーロッパでの戦争という設定には、疑問を感じた。」
「鴻上尚史氏の『スナフキンの手紙』については、言葉でプロットをずんずん進める、その方法を、 私は強引だと感じ、それを演劇・言葉への楽天と感じ、その楽天性に賛成しかね、今、まだ考えあぐねている。」
岡部耕大
「ぼくとしては、力業でぐいぐいと押していく鴻上氏の作品に惹かれた。」
「まるで我が家の子供たちが 読んでいるようなマガシンの趣とエネルギーがあった。これは「新人類の息子」の作品だろうと思っていた。 どう読んでもこの感性は二十歳の感性である。そして、したたかに覗く、観察の目や皮肉の言葉、あるいは媚を売るような、 狡さしたたかさは、大人の感性であった。」
「ぼくなどにはとても書くことのできないこのワールドは、映像とマガジンとドラマの合体した恐るべき傑作である。」
「この作劇は平田氏のある到達点であるという意見にも異論はあったが、うまさとしたたかさを「静けさ」の オブラートに包み、口当たりよく提出したその劇作は、氏の今後の演劇人としての方向性とともに興味深いものがある。」
佐藤信
「技巧というか方法意識というか、あらかじめ作者によってほどこされた 芝居そのものへのデザインばかりが、妙にかさばっていて邪魔くさい。 芝居を信じるにせよ信じないにせよ、そういうものは放っておいて、もっと言葉そのものとまともに 向き合うことはできないのか。」
「だが、鴻上、平田という才能に向って、訳知り顔のお世辞は無用だろう。 あらわなスノビズムも、劇場にとっては必要な特性のひとつだが、それを無媒介に拡大した演劇共同体は、 つまりサークル演劇というものだろう。論ずるに足る芝居ではなく、 論ずるに足る言葉が読みたかった。」
田中千禾夫
欠席
つかこうへい
欠席
野田秀樹
「二人の作品は、どちらかといえば、うっかり流れにのりやすい気がします。小器用な感じで、 ええいちくしょう、どうだ、これが俺の作品だ、「文句あっか!」という強さがありません。 もっとも鴻上氏は、以前は、そういう「文句あっか!」という部分で書いていたようにお見受けするのですが、 ずうっと、この岸田戯曲賞浪人になっているうちに、おカミ(選考委員)の顔色をうかがった作品になっていった気がします。」
「平田氏は今ハヤリの作風です。」
「さりげないコトバを窓にして、部屋から遠い景色を見る。よくいえばチェーホフなのでしょうが、どうも僕には 、予告編のような戯曲に見える。」
「予告編やカタログの世界では、「芝居を、どう終わらせるか」という劇作家の味わうことのできる醍醐味 (くるしみ、ともよむ)を、はじめから放棄している食わず嫌いのように思える。 予告編は、批評するにはもってこいでしょうが、批評しやすい芝居におもしろい芝居はありません。」
別役実
「『東京ノート』という作品の、従来の演劇と相違する最大のものは、舞台空間そのものが個有の時間を内包している、 という点である。これまでの演劇の時間が、登場人物の行為によってつむぎ出されていたことと比較すれば、 これは画期的なことと言えよう。つまりこの舞台においては、登場人物と舞台空間が、どちらを主としどちらを 従とすることもなく、まさしくその関係性において、演劇を推移させているのである。」
「『スナフキンの手紙』も、いわゆる情報化社会の中で個体が次第に解体され、好むと好まざるとにかかわらず、それぞれが それぞれを共有せざるを得なくなりつつある事情を描いている点で、問題意識そのものはよく似ている。 しかしこの作品は、これを演劇そのものに対する「問い」として展開するのではなく、 架空の条件の中で論理として展開している分だけ、演劇的趣向を異にするのである。」
「~後半の日記の出現とサイコ・ステージを組む必然化する個人の解体過程を、論理でなく演劇で保証すれば、 更に説得されたであろうと思われる。」
平成7年/1995年3月・白水社刊『スナフキンの手紙』〔挟み込み〕選評掲載





第40回(1996年)
『髪をかきあげる』
鈴江 俊郎

『海と日傘』
松田 正隆

選考委員
     評言     
井上ひさし
「『髪をかきあげる』の超微細な台詞術は巧者である。一つ一つ採り上げればまるで意味のない台詞を、作者は巧妙に積み上げ絡み合わせる。台詞による追っかけ、突っ込み、外し、とぼけ、そして思いちがい。その精細な織り目の間から、「ひと恋しい」と呻く人たちの、だるく切ない声が聞こえてくる。この作品では灯りがもう一人の重要な登場人物であり、その使い方に機知がある。」
『海と日傘』は、とてもいい。なによりも台詞の文体が確立されており、方言の効果もあって、どの一行にもはっきりと作者名が刻み込まれていた。加えて、巨きなドラマを古典主義的な端正さの中にうまく埋め込む技術の高さは目を瞠るばかりで、いい意味での「思わせぶり」な展開の中から、人間が一人、この世から消えて行くことの凄味がゆっくりとたち現れてくる。」
太田省吾
「鈴江氏の短い言葉には、つぎのような言語状況が表されているように思える。少し肝心なことを語ろうとする時、わたしたちの身に生じる葛藤のことだ。語りたい気持は残るが、言うと嘘になり、ちがったことになるように思え、先を切ることにしたり、嘘にもちがったことにもならないと思えるある一部だけを言葉にするにとどめる。そこに現在の言語状況を見ている。
このような短い言葉は、言葉の表現の制限、貧しさの表現のようにも思えるが、鈴江氏の作品では、それは、なぜ切られ、なぜ断片的になるのかを表現する能力をもっていて、リアルな豊かさをもちうる言葉のあり方として示してくれた。」
「松田氏の作品は、〈少し肝心なことを語ろうとする時〉のあの葛藤に対して、わたしたちは、日常の場面では語らないままでいる、という事実を見ようとするところに自身の表現の場を定めようという、強い結論の下に書かれた作品だった。
そして、そのことによってその肝心なところを語らない、語れないことがもたらす、わたしたちの日常の生の罪深さといったものをあぶり出した作品だった。」
岡部耕大
「鈴江俊郎さんにも松田正隆さんにもしたたかな戦略が感じられて好ましかった。姑息な戦略ではなく、したたかな戦略である。それは、足を地につけて粘り強く自分の演劇を持続してみせるという決意でもあるような気がする。」
「ぼくは、まだ東京にもテーマはたっぷりあると思っている。むしろ、空洞化していく東京にこそテーマがあるのではないかとすら思う。
しかし、鈴江氏・松田氏の、乾きながらも闇から時代を睨んでいるような感性と殺気には、審査員のだれもが驚嘆したのである。」
佐藤信
「一見して従来の戯曲文体と離れたところにある鈴江作品はもちろんだが、オーソドックスな近代戯曲にも見える松田作品も、実際の上演には多くの工夫と創意が必要だろう。現代演劇のあたらしい潮流が、劇創造の現場からではなく、こうして戯曲というかたちで示されたのは久しぶりの出来事ではないだろうか。その意味でも、現代演劇の可能性のひとつが、今回の受賞二作品によって大きく開かれたような気がする。」
つかこうへい
欠席
野田秀樹
欠席
別役実
「『海と日傘』は、日常を形造っている時間の流れのこまやかさを、見事な文体に仕立てあげて、完成度の高い作品である。作風、及びそのモチーフから、文学性の強い写生劇ともとられかねないが、人物配置とその出入りのテンポを見ると、作者が極めてシアトリカルな感性の持ち主であることがよくわかる。」
「『髪をかきあげる』は、これまた結果的に叙述的な文体となって結実した作品であるが、前者よりそれをそうするための悪戦苦闘の跡が見え、それだけにやや文体に乱れはあるものの、説得力のある作品になっている。」
平成8年/1996年4月・白水社刊『髪をかきあげる』『海と日傘』〔挟み込み〕選評掲載





第41回(1997年)
『ファンキー!――宇宙は見える所までしかない』
松尾 スズキ

選考委員
     評言     
井上ひさし
「〈金玉を弾くとシンセドラムになる〉といったようなC級のギャグ(笑わせる工夫)がじつに多く、その一つ一つは、あるいは愚劣、あるいは低級、あるいは下手糞であるが、それらが速射され、間断なく繋げられ、ここまでびっしりと詰め込まれると、どれもこれも不思議な光り方をしはじめるから奇態である。」
「また、「宇宙」を持ち出したり、マルクス兄弟に目くばせしたりして、知的ハッタリは相当なものだが、しかしやはり底流に、これだけは質のいい抒情が流れている。それにまことに通俗的な人情話を、ここまで躁的なスラップスティック劇に仕立て上げるという戦略もしたたかだ。」
太田省吾
「はじめの数頁、そこには他の候補作を断然しのぐ力が感じられ、メモにも「出だし――車椅子の身体障害をもつ少女と父の場からリスの場まで、すごい」と書きました。」
「テレビ芸能文化を共通項として成り立っているとする氏の〈ここにあるもの〉の前提が、私にはひどく狭いものに思え、氏の感受している現実認識はどこまで他者と交感しうるものとしようとしているのかということに疑問を感じたということです。つまり、〈ここにあるもの〉の空虚がそこへの自足のように思えたと言ったらよいでしょうか。」
岡部耕大
「この作者の凄さは緻密な構成力にある。破天荒を装いながら、その緻密な構成力には驚嘆させられる。殆ど本能的な構成の巧みさである。現代の風俗や人間を描きながら、この作者が捕らえているテーマは「永遠と死」である。第一幕の貼り紙「生き神様の告・神隠しの穴、入るべからず」から、われわれはすでにこの作者の術中嵌まることになる。」
「これから、この作者は無自覚が自覚になり無意識が意識になり、より過激を望む観客の要望にも応えながら、自分探しをしなければいけないのかもしれない。が、このまま何かににじり寄ることを拒否する演劇を続けるなら、この作者はこの作者しか到達し得ない世界へ到達することになる。」
佐藤信
「松尾スズキさんの『ファンキー!』は、精密機械の歯車のように正確なせりふと場面のかみ合わせが見事だった。笑いと悪意と批評に溢れた短いショットが、まるで自動筆記のようにここちよいリズムで連なっていく。そのリズム感覚が、新鮮な劇的文体の誕生をたしかに予感させる。ぼくたちの周囲にある重くて日常的なテーマを、表層ではなく、現代人の身体感覚でさばいた手際にも拍手。」
竹内銃一郎
「それにしても、心乱れる選考の場の二時間であった。
開票(?)の結果、わたしもイチ推しした『ファンキー!』が、予想外の大差で一位ということが判明したのだったが、太田さんから、「こういうものを演劇と呼ぶのならば……」という趣旨の、『ファンキー!』に対する素朴で重い疑念が洩らされ、井上さん、別役さんからも同様の感想が述べられた。『ファンキー!』推薦の弁を、というより、自らの演劇観を問われているようで、わたしは大いに困惑したが、それに加えて、これは〈演劇〉の規格の外だとする太田さん等の意見に対して、わたしの『ファンキー!』評は、前述したように、描かれた世界の異様さに比べて、方法はひどくまともなウェルメードではないか、というものなので、なんとなく議論が噛みあわない。別役さんの「戯曲ではなく、ショーの台本のようだ」という意見は、わたしの腑に落ちたのだったが……。」
野田秀樹
「この『ファンキー!』は、はじまりからおわりまで暴走しつづけている。松尾氏が机の前で書いたのかは知らないけれども、書いた場所から、外へ外へと溢れ出ていく猥雑なエネルギーがある。それは、芝居がもつ力であり、彼が面白い芝居のタタキ台となるべきホンを、これからも書き続けていくことの何よりの証しだ。
外から内へお濠をかためて権威になっていくような、今の日本の演劇界の風潮にあって、この内側から外へ流れ出していく松尾氏のエネルギーは、天井で、ひっくりかえされた巨大なバケツのようだ。その汚水は、演劇の破水である。同じ戯曲家として嫉妬する。」
別役実
「これを一篇の詩と考えた場合、かつて天沢退二郎が使った言い方をさせてもらえば、いささかも「失速」することなく、「飛翔」続けている見事さは、認めなければならないであろう。私の言い方を使わせてもらえば、「全編、はしゃぎ切れている」のである。
しかも、何がこれらを「飛翔」させ、「はしゃがせ」ているのかということを、意外に見せていない。たとえばここには、「身体障害者」や、その「近親相姦」などが語られているが、ではそのスキャンダリズムによって観客を挑発し、併せて自ら鼓舞されようとしているのかというと、必ずしもそうではない。そうした野蛮な手つきは、見事にすり抜けられているのである。」
平成9年/1997年6月・白水社刊『ファンキー!』〔挟み込み〕選評掲載





第42回(1998年)
『うちやまつり』
深津 篤史

選考委員
     評言     
井上ひさし
「極端に質のちがう二種類の会話が、みごとな対位法で展開して行き、劇はやがてアンチクライマックスを迎えるが、最後に「聖域」と見えた空き地が、やはりただの空き地に戻ってしまう。
そして、後にのこるのは、「わたしたち現代人は、ひょっとすると、性的なことがらを介してしか意思の疎通ができないのではないか」という、余りにも苦い思いである。ここに痛烈な現代批判がある。
この批評精神を持って、この作にあらわれた会話の水準を保つことができれば、この作者の未来は常に明るいはずである。もちろん作者の行く手に高い壁が何度も立ちはだかるにしても。」
太田省吾
「わたしたちの現在の生活では、なにをどんなふうに〈ふつう〉として受け容れているか。この作品を読んでいると、それはほとんど、なにもかも受け入れる沼地のようなものになっていることに気づかされる。
おおっぴらに〈エッチ〉の話をする若い娘と殺人容疑をかけられている若い男が、〈ふつう〉の中で生きている。通常は、〈奇妙な〉二人とか、社会分析による象徴的な二人といった描かれ方をする二人が、ここではあくまで〈ふつう〉の中で描かれる。そこに、わたしたちは、自分の踏んでいる場所が沼地であることに気づくように、ざわざわした感覚を味わうことになる。
こういう〈ふつう〉の受容力は、わたしたちの現在の生活をとりまくなんだかわからない空気のかなり重大なところを形成していると思えるし、こんなところを描くこの作品は、演劇としての表現領域を拡げたことになるようにも思えた。」
岡部耕大
「『うちやまつり』は意味不明の題名である。もっとも、秋浜悟史氏の題名にも『ほらんばか』『しらけおばけ』といった音で読ませる題名はあった。『うちやまつり』は題名だけではなく内容も意味不明と読める。」
「電車の中での高校生や女学生の躾の悪さに眉をしかめた経験はだれもがしているはずだ。ぺたんと床に平気で座る。化粧をしたりパンを食べたりしている。若者を見るとその国がわかるそうである。「もう、日本はうちやまつりだな」。その感覚なのかもしれない。」
佐藤信
「ひとつひとつが丁寧に考えられた、作為のある戯曲だった。その作為は、おおむね深津さんの意図通り成功していると思う。ことに、団地の中の得体の知れない空き地という場所の設定が、生身の人間が立つ場所として生かされている。この戯曲は、小さな劇場がたぶん似合う。楽しんでくれるお客さんも限られるだろう。そういう芝居もなければならないし、そのための戯曲も絶対に必要だ。しかし、深津さんの作品が評価されたのは、そうした方法についてではない。方法の中で示された、深津さんの完成度だ。」
竹内銃一郎
「冒頭からセックスの匂いがたちこめ、随所に挟まれるユーモアもどこか不気味で、狂気の影が作品全体を覆っている。読み手の生理にまで肉薄してくるこの作品の〈嫌な感じ〉は、まさに作者の狙うところであり、そのように感じたわたしは、言うなれば、作者の思う壺にはまってしまったというわけだ。並々ならぬ力量の持ち主と言うほかあるまい。」
野田
秀樹
「受賞作になった深津篤史氏の『うちやまつり』は、「歴史」や「人間」とはほど遠い作品である。全編に漂うイヤーな感じが面白い。少しずつ沼に引きずり込まれるようなイヤーな感じである。テープレコーダーの使い方が安易なわりには、どうなるわけでもなく、その辺りが積極的には推せない理由であった。だが、沼の中に引きずり込むスペシャリストである別役実氏の「責任を持つ」というコトバを信頼した。」
別役
「この種の作品は一体に、解説することが困難であり、敢えて言えば、団地の一隅にある空き地という、風景ならざる風景における、偶発的にすれ違った人々の断片的な関係、とでも言うほかないのであるが、この構図こそが恐らく、我々の通常目にしている「現実」というものの、最も典型的なものと言えよう。
もちろん、これがこのまま風景として、関係の断片として投げ出されているのであれば、さほどの評価してしかるべきものとは言えないが、作者はここから、昆虫が他とコミュニケートする「フェロモン」のような、いわば「匂い」通じて、それら断片化された関係を探り当てようとする。つまりこの触手が、単に「現実」を「現実」として冷やかに突き放すのではない、新たなニュアンスを、この作品にもたらしているのである。」
平成10年/1998年7月・白水社刊『うちやまつり』〔挟み込み〕選評掲載


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