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次回公演

update 2018.12.22

架空畳FLIP SIDE♯03

諧謔能楽集・Ⅰ
カノン、頼むから静かにしてくれ

2019年6月20(木)~23(日)
北千住BUoY

作・演出:小野寺邦彦
出演:岩松毅/江花実里/田村友紀 ほか


ご挨拶

物語、のことをいつも考えています。
それは私にとって必要なものであることは分かっています。分かっているのですが、それがどんな形をしているのかはまるで分からないのです。世の中にあるどんな「お話」を見ても、何だかそれ以外のものがある気がするのです。それは勿論、自分が書いた拙い物語についても、です。

私にとって、それは極めて個人的なものです。普遍化され、一般化された筋書きではなく、自分だけに必要な表現です。但しそれをお客様にお出しする以上、最低限度、世界と了解を果たすためのコードが必要で、それがきっと、物語なのだと思います。思ってはいるのですが、それがどうやったら出来上がるのか、わかりません。わからないまま格闘するその「問い」として、舞台は結果的に出来上がってしまうものだ、という思いが12年間、芝居を作ってきた実感として残りました。

先日、ご縁がありまして、「能」の舞台を観劇させてもらいました。正直、退屈かな、と思って「お勉強」の気持ちで観劇したのですが、これが面白かった。滅法、面白かったのです。それは近頃触れたどんな現代演劇よりも、刺激的でした。勿論、それは古いのです。複雑さ、目まぐるしさは一切ないのです。けれど古典芸能として普遍化され、一般化された物語を-で、あるからこそ-骨組みとして、そこにどんな「私の物語」を載せることも可能である、と思いました。それは音楽でいえば、シンプルで力強い4つ打ちのビートのようなものです。どんなコードも、メロディも、その基盤には易々と載せることができるのです。

能に触れて分かったことは、国や時代が変わっても、現在に残っている物語はどれもとても似ている、ということです。能楽のバリエーションにあるストーリーのほぼ全ては、世界各国に残る物語から類似のものを挙げることができます。架空畳の今回の公演では、そのことを検証し、実証します。具体的には、能楽の6つのレパートリーを解釈、解体し、ギリシャ悲劇、北欧神話、古事記、各国の民話などの「類似する」物語の形態とのミックス、マッシュアップを試みます。例えば、能楽「鵺」とギリシャ悲劇「アンティゴネ」は、まったく同じ構造をもっていると考えます。その二つをミックスしてしまう。時代、人物、背景、そしてテーマをもシームレスに繋ぎます。

つまりここで試みることは、いわば物語の「究極の普遍化」です。これ以上は削りようがないほどシンプルに組み立てられた強固なモデルを地盤にして、さらにその上に「普遍化されえない、「私」の物語」を搭載しようと思います。そうすることで、何が物語で、何がそうではないのか…その片鱗が見える気がするのです。

片鱗、というのはその字が示す通り、ただ鱗の一枚に過ぎない。巨大な魚の尻尾さえ、我々はまだ掴んではいない。けれど必死でむしり取ったそのたった一枚の鱗から、「存在しない巨大な魚」を夢想し、空の両手を精一杯、拡げてみせたい。その「手」は、私にとって、俳優です。夢想家のたわけた世迷言を形にしてくれる、歪な身体です。架空畳は、劇団です。プロデュースユニットではありません。俳優は「いればいい」のではない。「うまければいい」のでもない。他に変えようのない存在、取り換えの効かない存在として、演出する。それが「劇団」にだけ可能な表現だと思います。私が書く物語は、ただ一枚の鱗です。けれどその脆弱な一枚に全体重を傾けて、俳優に捧げようと今、照いもなく思っています。

…と、なんだか、随分大仰なことを言っているようですが、なに、どうなるかはやってみなくては分かりません。今回に限っては、手数が勝負です。一つのモデルを恣意的に示してみせても意味はありません。AプロとBプロ、二つのプログラムに各々3本ずつの短編(30分×3本)、都合6本の「諧謔能楽集」を編んでお見せします。諧謔、とは世界をあざ笑い、疑い続ける、すなわちパンクの精神です。逃れようのない自明の世界で、どれだけもがき、あがくことが出来るのか。シジフォスの神話を例に出すまでもなく、徒労にも似た格闘を続ける滑稽な自分自身をも笑う精神で、精一杯、遊んでみようと思います。

私はいつだって真剣です。真剣に、狂っているのです。どうぞご期待ください。

架空畳
小野寺邦彦

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