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架空畳のこと

update 2017.01.20

架空畳(かくうじょう)は、2006年、多摩美術大学在学中 であった小野寺邦彦が岩松毅らとスタートさせました。
旗揚げより一貫して、異常な情報量、台詞量、運動量を詰め込む『エントロピー演劇』を標榜しています。
2017年現在、すべての上演作品を小野寺が作劇・演出しております。
●2012年『薔薇とダイヤモンド』 第18回日本劇作家協会新人戯曲賞候補。
●2016年『かけみちるカデンツァ』第22回日本劇作家協会新人戯曲賞候補。


団、という言葉にずっと違和感を感じてきました。今も、感じています。団という文字が、もう、性に合わない。団体、団結、集団。苦手なジャンルです。人が嫌いなわけではないのです。むしろ、好きです。みんなで一緒に一つになるというのがダメなのかもしれません。みんなで一緒にバラバラだったら、ちょっといいな、と思います。
集団というのは、あくまで個人の集まりであってほしい。集まってくるヒトビトがそれぞれいろんな思惑、目的をもっていてほしいのです。劇団は、目的でなく、手段でありたいな、というのがずっと考えた結論です。一人ひとり、いろんな目的があって、その手段として架空畳がある、というような。しょぼい結論ですが。一生懸命、考えたんですよ。

でもそんな集団が本当に可能なのでしょうか。可能でなくても、いいのかもしれません。求めることさえできれば。

本当は[お芝居]を作りたいのかもわかりません。カテゴライズできないもの、そこにしかないもの、見たこともないものを作りたい。それにいちばん近いものが、今のところ、[お芝居]のような気がするのです。ずっとそう思ってきました。で、この前フと、見たこともないものは、見たこともない集団にしかできないんじゃないか、と思ったんです。10年やっててそこに気づいてなかったのがスゴい。

当然ですが私も独りです。ただ、自分のためだけに作品を作ること。決して何かのために、とか、誰かのために、などという上着を着こまないこと。私が芝居を作らなくても、誰も困りません。ただ私だけが、困るのです。すべては自分のためです。晴がましいことなど一切なく。自分のための劇作、自分のための創作。それを人に見せる、しかもお金を取って。そこにしか価値はないと思っています。裸になることにためらいはありません。本当です。
われわれは観客を舐めません。つまり無理解を怖れはしない。手心は一切加えずに、与えて、与えて、与え尽くす。平凡な日常や、些細な出来事や、共感や、青春や、沈黙は描きません。 それ以外の全てをお見せします。
劇場でお会いしましょう。

架空畳
小野寺邦彦

んだかんだ架空畳も10年やってしまいました。 途中何年かお休みしてますし、華々しい活躍なんかは一切ナイのですが。 それでもありがたいことにお客様はボチボチと増えておりまして、近頃は 座・高円寺や吉祥寺シアターなどのホールでの公演を行って参りました。 が、そういった劇場は1年以上も前から予約するのが『常識』なのだそうです。 取りあえず劇場は押さえて、時期がきたら何をするか考えて、そして公演をする。 それはそれで愉快なものですが、けれど、やはり、やりたいと思ったときに突発的にやる、それもまた手放したくはないのです。

演出の問題もあります。 ホールでの大きな空間を使った芝居つくりはスペクタクルで楽しいですが、息がかかりそうなほど舞台と客席が密接した小劇場の感触もまた捨てがたいのです。 それらは良い・悪いではなく、質の違うものです。音、距離、演技。同じ「芝居」ですが、まったく異なる方法論が求められます。 その両方を、絶えず循環していたい。どっちもやりたいのです。

そんなわけで、小空間で突発的に打つ公演のシリーズを作りました。Flipside(フリップサイド)は、レコードのB面の俗称です。 本公演ではできない、アイディアに満ちたやや実験的な作品を、小さな空間で上演しようと思っています。 どうぞよろしく。