NOTE

生活と創作のノート

update 2019.03.23

生活の冒険フロム・失踪者未完成の系譜TOKYO ENTROPY薔薇と退屈道草の星偽F小説B面生活

フィクショナル街道乱読亭長閑諧謔戯曲集ここで逢いましょうROUTE・茫洋


ROUTE・

Canon.s NOTE


#148 永い午後 2019.03.23 SAT


■先週末、初めて降りた某駅でのこと。

■某駅、と場所を濁すのは劇団「柿喰う客」の稽古場にお邪魔したからだ。 その稽古場では、人気のいわゆる2・5次元舞台の稽古も行われており、 稽古場が知れてしまえば、イケメン求めてファンがやって来てしまう可能性があるからだ(自主規制)。 次元の壁を壊す重罪を追うわけにもいかぬ。恐ろしい重罪だ。罰として0・5どころか、1次元くらい取られてしまうかもしれない。ペッターンて。何を書いているのか分からない。

■駅前はほどよく活気があり、少しレトロなムードの商店街なども人で賑わっている。天気もよく、空気は澄み、足取りも軽く目的地へ歩き出した。だがおかしい。何かがおかしいのだ。ふと天を仰ぐと違和感の正体にはすぐ気が付いた。駅周辺に建つビルの窓という窓に張り出された店舗の看板だ。

もみ処、ほぐしサロン、リンパマッサージ、岩盤マッサージ、骨盤矯正、りらくる、カイロ整体…

揉まれ過ぎじゃないのか。マッサージ激戦区だ。マッサージ戦国時代なのか。マッサージ地獄に堕ちたのか。 マッサージバブルか。「揉み」が攻めてくる。この街で「揉み」から逃れられると思うな。 「揉まれる」と思ったときには、既に「揉まれて」いるのだ。恐ろしい。 「揉み」は恐ろしいよ。「揉み」の圧力に恐れをなして駅前を抜け、大通りに出れば、その道路脇には飲食店の群れだ。 気づけば工場街。働き者の工員たちが、その鉄の胃袋を満たすためにやって来る店は

串かつ、とんかつ、とんかつ、串かつ、とんかつ、串かつ

「かつ」ばかりじゃないか。「かつ」激戦区か。「かつ」戦国時代か。「かつ」地獄なのか。「かつ」バブルか。「かつ」コンビナートに迷い込んだというのか。そして「かつ」の合間に【からだファクトリー】って、まだ揉むのか。「かつ」の箸休めに「揉み」を挟むんじゃないよ。ふざけるな。かつ、マッサージ、かつ、マッサージ、かつ、かつ、マッサージ…私の気が狂ったのだろうか。ここは「かつ」と「揉み」の国。脂、揉み、脂、揉みだ。上質なロース肉の下ごしらえか。なにが【温活オイルリンパドレナージュ】だ。追いオイルか。ドレナージュする前に脂を控えたらどうだ。いっちょまえにドレナージュしてんじゃないよ。なんだ、ドレナージュって。【身ラクるマッサージ】とは何事だ。恥を知れ。…気づけば、私はドトールにいた。レシートと一緒に渡された小さな紙片には、こう書かれていた。

「当チケット提示で30%オフ!今が揉みどき、ほぐし頃」

悪い夢を見ている。脂と揉みの悪夢。そしてそれは、決して醒めることのない夢なのだ。

■そんな悪夢に苛まれながらもなぜ稽古場に伺ったかといえば、 KAATで行われている神奈川かもめ短編戯曲フェスの一本として、 昨年行われた戯曲コンペで最優秀賞を貰った拙作『モダン・ラヴァーズ・アドベンチャー』が、 劇団「柿喰う客」(演出:中屋敷法仁、出演:七味まゆ味、田中穂先、永田紗茅)により上演されているからだ。 稽古、公開リハ、本番の1ステージ目を見た。その演出にはハッとするアイディアもあり、同時に、以前に私が施した演出と重複するようなシーンもあった。戯曲が導く必然と、そうでない部分というのがウッスラと分かってきて面白かった。これは創作者の特権だろう。 演出とは解釈であって正解はない。キャスト、空間によっても大きく変わるし。などとまあ、知った風なことを書いても仕方がない。 ただ、中屋敷演出、柿喰う客キャストの演技を眺めていて、そこにはハッキリと、直進的なベクトルが敷かれていると感じた。 その愚直さ、引き算によって削ぎ落とされた様式的でソリッドな振る舞いは、徹底的な開き直りと自信(開き直ることへの、自信)に裏打ちされたものだ。 それが、私には、ないんだな。私は、引き算で引いた箇所には、別の余計な脂肪を付けたくなる。 もしくは、引いてはいけない部分を引き、引かなければいけない部分は残す。何故そうするのか?といえば、そういう風にしか作れないからだ。 グズグズする何か余計なノイズがなければ、座りが悪い。ま、つまり開き直りがない。 その「座りの悪さ」を敢えて飲み込んで、「こういうものだ!」と提示する腹の座ったところがないのだな。 しかし、と、今回の上演を観て思うことは、やはり私がそれをやっても仕方がない、ということだ。「腹の座った」演出は、 その究極というべき姿で目の前に示されたのだから。私がその尻尾を追う意味はまるでない。柿喰う客から教わったことは、技術ではなく、 その態度である。私は私の戯曲を誰よりも愛しているし、私の俳優も愛している。だが、私の演出を愛しきれているかというと、やや心もとない。優劣ではなく、その「想い」が差であると感じた。ちょっと精神論入ってるようだが、その精神に肉を通す、自分だけの技術を稽古場で模索しようと思う。

■本当は今日、その「かもフェス」の関係者懇親会だったのだが、何時から始まるのか一向分からず、 ちょっと夕方まで仕事を入れてしまったら、あれよあれよと面倒ごとを頼まれ、「待ち」の時間が出来てしまった。 もう間に合わない。本当にこういうところが駄目だ。 社交を任せてしまったメンバーには本当に申し訳ない。当日になっても開始時刻が未定の予定でスケジュールを開けておけるほど、優雅な暮らしではない自分が情けない。 来年の劇場代だって稼がないといけないし。 ビンボー暇だらけ、がポリシーなんだけどね。そんなわけで、無為な時間の中で申し訳なくなりながら、このノートを更新しておく。

小野寺邦彦



#147 あの話の続きを 2019.02.28 THU


■駅前の駐輪場に、自転車を停めている。

■前輪をストッパーにカシャンとかけるだけの、青空駐輪場だが、初めの3時間は無料、そしてその後24時間毎に80円という破格の設定だ。毎日停めても、月に2400円。良心的である。昨年末、ひょんなことから、ちょっとカッコいい白のイタリア製ミニベロを譲り受け、日常の足として便利に乗り回している。

■先月のことだ。終電で帰宅し、駐輪場へと向かった。精算機で清算を済ませ、愛機のそばに近寄ると、闇夜にチカチカと赤く、何かが発光している。私の自転車だ。サドルに何かが取り付けられている。LEDのテールライトだ。けっこういいヤツだ。勿論、取り付けた覚えはナイ。1分くらい考え込んで、それを外し、柵の上に置いて去った。それから数日経って、また深夜、駐輪場に自転車を取りにいった。料金を精算し、キーチェーンを外し、シートに跨って、フラッシュライトをつけようとした瞬間に、違和感を覚えた。ハンドルバーにベルが取り付けてあるのだ。元々のベルは、本体フレームに取り付けてあるので、ハンドルバーにはライトしか付けていないハズだ。よく見ると、ビアンキのベルだ。けっこういいヤツだ。今度は5秒と考えずに、外して放り投げた。誰かが、私の自転車をグレードアップしようとしている。誰だ。そして何のためだ。何かのメッセージか。交通事故に遭った未来の私が、事故を回避するために安全グッズを取り付けにやってきたのか。赤毛組合的な策謀が陰で絡んでいるのだろうか。そして数日前のことだ。やはり終電で最寄駅に降り立った私は、ちょっと怯えつつ駐輪場へ向かった。ひょっとしたら、シートポストがERGONになっているのではないか。カーボン製のドロップハンドルが取り付けられているのではないか。いっそ、まるごとコルナゴのロードバイクに化けているのではないか。喜び勇んでそれに跨った瞬間、窃盗犯として逮捕される私。すべては罠だったのだ…。

■だが、自転車は普通だった。子細にチェックしたが、何も取り付けられていなかった。半ば安堵し、半ば失望しつつ、私は精算機を操作した。100円玉を投入しようとした瞬間、無人の駐輪場に機械的な音声が響いた。
「清算の必要はございません」
しばし呆然とし、すぐに事の次第を理解した。そう、『誰かが、既に料金を払ってくれた』。そして『初めの3時間無料』ゆえに、ソレは『この3時間以内に行われた』のだ。瞬間的に周囲を見渡した。私の自転車と、私自身に、親切を働く謎の存在。誰だ。誰なんだよ、お前は。親切は恐ろしい。親切は怖いよ。どんな暴力よりも、得体の知れぬ親切こそが人を恐怖に陥れる。取り敢えずいま、駅までは歩いて通っている。

■舞台の打ち合わせのために新宿に向かう電車で、友人の光藤にバッタリ会った。

■大学一年生のたぶん秋頃だった。今は(立派な賞も取ったらしい)現代美術の作家となった光藤の、それは初めての作品だった。『風景に、付箋を貼る』。奴はそう言った。縦180センチ、横50センチほどのベニヤ二枚でガラスを挟み込んだオブジェ。ガラスはベニヤより数十センチ背が高く、挟まれたベニヤの間から、チョコンとはみ出して、遠目からみればそれは確かに付箋に見えないこともなかった。それを多摩川の土手に穴を掘って埋め、自立させるというプランだったが、光藤は今と変わらぬヒョロガリの虚弱児で、硬い土手の土をスコップで掘るにはまるで体力が足りていなかった。そこで私が、穴掘り屋として呼ばれたのだ。高校2年の冬休み、土建屋でバイトをしていた私の部屋には、現場からくすねてきた巨大なスコップがあったのだ。部屋に遊びにきた際、奴はそれを見逃さなかった。決行の前の晩、光藤の家に泊まり込み、翌朝から河原の土を掘った。60センチくらい掘ったと思う。 掘った穴にオブジェを入れ、土を戻すと、意外なほどシッカリとそれは地面に屹立した。光藤は上機嫌で、焼肉を奢ってくれた。その夜も泊まり、風呂に入り、芸術の話をいろいろ聞いた。私は間違って美大に入ってしまった人間なので、 それまで馴染みの薄かった現代アートの話は高尚に感じられると同時に、かなりバカバカしくもあり、面白かった。夢を喰って生きている人間が愚かで美しかった。それから暫くして、大学の構内で出くわした光藤にフと、あの『付箋』どうなった?と聞くと、ゴミとして撤去されたという。写真を見せてくれた。『これを不法投棄とみなす』という内容の自治体の警告文が、ガラスの中央部に貼ってあった。作家は風景に付箋を貼ったが、権力はその付箋にゴミのレッテルを貼ったというわけだ、と奴は自嘲気味に笑った。私はまだ、戯曲を書いたことがなかった。

■つい先日まで千代田3331で行われていた光藤のグループ展示には、ついに行けなかった。同じく大学時代、一緒に長い時間を過ごした、今をときめく美術史家の松下と行ったシンポジウムの日は、次回公演の俳優の写真撮影日だった。そういえば、松下とも昨年、渋谷の喫茶店で偶然隣の席に座って再会したのだ。別に湿っぽい話はしない。誰かの下宿で、徹夜でゲームしたり議論したりした15年前の『次の日』が『今日』なだけだ。 こんなとき、中年になって良かったなと思う。10年の時間など、つい『この間』に過ぎない。 電車は10分ほどで新宿に着き、光藤とは改札で別れた。 「メシ食ってくわ。じゃあ、また偶然会おう」そう言ってサッサと行ってしまった。私が行けなかった展示のタイトルは『終わらない始まり』という。そのステートメントの末尾の文章はこんな具合。

ところで、材料と道具を会場へ搬入する時から、既に作品の設置は始まっています。例えば自宅の生活空間で、手垢がつく場所、よくぶつかる場所、あると思います。そこに作品を置いても良い。 大事なものや重要なものを、必ずしも大きく飾らなくても良い。その空間のなかで働いて「なってしまったこと」だけで展覧会をつくっても良い。 この展覧会は、あなたにも出来ます。

まるで自分が書いた文章のようだ。そうと気づかぬうち、彼から大きな影響を受けていたのだな。彼らがいなければ、私は戯曲を書いていない。そうしたら今頃…もっと幸福な人生だったかもしれないけど。ま、それはいい。

■毎日、書き、捨てて、少しづつ、稽古が近づいてくる。『終わらない始まり』の中で、もう私の舞台は、始まっている。

小野寺邦彦



#146 茫洋のひと 2019.01.28 MON


■大分へ旅行にいった。

■劇作家大会、という催しがあったのだ。別に誘われてもいないが、飛行機に乗りたいな、というだけの理由で何となく行ってみたのだった。大分といえば温泉だ。宿泊した駅から徒歩一分のそのホテルにも、「天然温泉」がついていた。チェックインして10分後には、私は湯船にいた。真っ昼間である。広い温泉には私一人である。最高だ。最高じゃないか、大分。仰向けでジェットバスを堪能していると、赤い矢印と、デカデカとした文字が目入った。「屋上露天温泉」。そうかそうか、屋上に露天がなあ。結構じゃないか。つからない理由はない。矢印に誘われていそいそとドアを開けた。外である。階段がある。階段の脇にまた、赤い矢印だ。「屋上露天温泉」そう書いてある。それはまあそうだろう。屋上へ上がるには階段だ。しかし、これは何というか、フツーのいわゆる非常階段である。ビルの屋上へ上るための、味もそっけもない、例の鉄骨の、非常階段なのである。素っ裸でそれを上ると、そこは屋上だった。やはり味もそっけもない、本当に普通の、唯の「ビルの屋上」である。 そこに、湯船があった。あって当然ではある。 それがなければ、私は、真昼間、すっぽんぽんでビルの屋上にいる中年男である。湯船につかる。身を隠すような覆いなど何もない。 目と鼻の先に大分駅だ。ホテル前の道路を、人々がスタスタと歩いてゆく。 すぐ真隣に建つビルでは、鳶職人たちがせわしなく働いていた。二つのビルの距離は2メートルもないだろう。例えば私が、いまこの状態で、2メートル横にスライドすれば、犯罪者の誕生である。私は識る。たった一つ、湯船がそこにあるだけで、人は昼日中、ビルの屋上に素っ裸で居ることが出来るのだ。空気は澄み、空はどこまでも青かった。私はこれからどうすればいいのか、見当もつかなかった。

■劇作家大会、とはその名が示す通り、劇作家が集まり、いろいろとイベントをこなす大会だった。私も滞在中の2日間で、3つほど講演を聞いた。どれも面白く本当にためになったが、中でも岩松了氏のお話は興味深いものだった。岸田戯曲賞を受賞した際、別役実さんに「これは不条理劇だ」と言われて、そうなの?と感じ、不条理、とは何だろう?と考えたという話。(選評の一部は
→こちら) これは、YOUTUBEで公開している「岸田戯曲賞を読む」4回目で扱っている内容なのだが(まだ2回目の「小町風伝」の公開途中です。是非聞いてね)予習的にチラリと不条理の一般的な理念を紐解けば、「世界には意味はなく、人間がどんなアクションを起こそうとも、世界には何の影響もない。すべては既に試されたあとであり、物語の最初と最後で、閉塞しきった状況は何も変化がなく、ただ滅亡へと人は進んでいく」ということになる。それに対して、岩松氏は自身の作劇のポイントを以下のように喩えていた。

■例えば、ある晩、妻が夫を刺し殺した、という事件が起きる。だが、近所の者の証言で、二人は前の晩、仲良く買い物をしていたという。旧来のドラマは、この刺殺の現場を(状況的にも、人物の心理的にも)ドラマの中心に置く。だが実は面白いのはそこではない。前の晩、一見仲良く買い物をしている間にも、妻は夫に対する殺意を抱いていた。その思いを生活の中に隠しながら、日々を過ごしていた。極めて平凡に、平穏に。そこが面白いのであり、そこを描くのが重要だ、と。事件を描くのではなく、事件の「前日」を、そこに至るまでの「日常」こそを描く。不条理な世界で、絶対に回避できない世界の終わりや破滅や絶望にただ向かっていくことしかできないのと同じく、この物語の先には、妻が夫を刺殺す、という絶対に回避できない結末がある。そこに至るまでの「普通の日々」を描く。つまり必要なものは言葉そのものの力、などでは決してなく、 その言葉が使われた文脈、コンテクストなのだ。そういう風に捉えれば、確かにこれは完全なる不条理劇である。妻が夫をこの数時間後に殺す、という文脈の中では、普通の、仲睦まじいような会話、或いはなんてことのない会話…「醤油とって」「あれどこやったっけ?」などのセリフでさえ、別のニュアンスを持つし、ホラーにもなる、ということだ。なんの変哲もない、ドラマのにおいさえしない凡庸なセリフを「どこにどのように配置するか」でまるで意味が変容する。言葉の在りようは、いつだってそのシチュエーションに依存している。目の前の人間を、数時間後に殺す、という必然の中で、例えば妻が一言、「ねえ…」「ううん、なんでもない」と喋るとする。破滅が回避できない世界の中で、ウラジミールとエストラゴンが空虚な「遊び」で無為に時間を浪費する姿と、それは同じ風景だといえるだろう。

■世界の在り方は多様で、残酷だ。それは間違いない。私はまた、言葉の無力さ無意味さを痛感しながら、その「無意味な力」でシチュエーションの方を引き寄せようと思っている。不遜だと思う。どうぞ嘲笑って貰って結構だ。

■2019年。年が改まって特に何かが変わるわけでもないが。1月、既に友人みくにさんの写真展でリリーディング公演「天使病」を、メンバーの田村友紀と行った。この脚本は、またバージョンを変えて近くまったく別の形で上演する予定もある。3月は、昨年神奈川の戯曲コンペで最優秀賞を貰った「モダン・ラヴァーズ・アドベンチャー」の柿食う客での上演もある。特に情報も出てこないし、どうなるか私にはサッパリ分からないが、戯曲提供は生涯初なので、それはそれで楽しみだ。気楽だしね。6月には架空畳での公演があるから、4月にはその稽古に入る。大きなたくらみを持った戯曲を毎日、部屋で、喫茶店で、アタマの中で、風呂につかりながら、考えている。書くことはまるで苦しくない。書けなかったことはない。書け過ぎてしまうことが、いつだって問題だ。書いたものを、削り、失い、忘れて、また書く。その作業の中に、たった一つ、すがるようなセリフが現れる瞬間を、待っている。今週木曜の夜まで、演者を募集するオーディションを受け付けているので、そちらも是非よろしく。

小野寺邦彦




© KAKU-JYO