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生活と創作のノート

update 2019.01.28

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ROUTE・

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#146 茫洋のひと 2019.01.28 MON


■大分へ旅行にいった。

■劇作家大会、という催しがあったのだ。別に誘われてもいないが、飛行機に乗りたいな、というだけの理由で何となく行ってみたのだった。大分といえば温泉だ。宿泊した駅から徒歩一分のそのホテルにも、「天然温泉」がついていた。チェックインして10分後には、私は湯船にいた。真っ昼間である。広い温泉には私一人である。最高だ。最高じゃないか、大分。仰向けでジェットバスを堪能していると、赤い矢印と、デカデカとした文字が目入った。「屋上露天温泉」。そうかそうか、屋上に露天がなあ。結構じゃないか。つからない理由はない。矢印に誘われていそいそとドアを開けた。外である。階段がある。階段の脇にまた、赤い矢印だ。「屋上露天温泉」そう書いてある。それはまあそうだろう。屋上へ上がるには階段だ。しかし、これは何というか、フツーのいわゆる非常階段である。ビルの屋上へ上るための、味もそっけもない、例の鉄骨の、非常階段なのである。素っ裸でそれを上ると、そこは屋上だった。やはり味もそっけもない、本当に普通の、唯の「ビルの屋上」である。 そこに、湯船があった。あって当然ではある。 それがなければ、私は、真昼間、すっぽんぽんでビルの屋上にいる中年男である。湯船につかる。身を隠すような覆いなど何もない。 目と鼻の先に大分駅だ。ホテル前の道路を、人々がスタスタと歩いてゆく。 すぐ真隣に建つビルでは、鳶職人たちがせわしなく働いていた。二つのビルの距離は2メートルもないだろう。例えば私が、いまこの状態で、2メートル横にスライドすれば、犯罪者の誕生である。私は識る。たった一つ、湯船がそこにあるだけで、人は昼日中、ビルの屋上に素っ裸で居ることが出来るのだ。空気は澄み、空はどこまでも青かった。私はこれからどうすればいいのか、見当もつかなかった。

■劇作家大会、とはその名が示す通り、劇作家が集まり、いろいろとイベントをこなす大会だった。私も滞在中の2日間で、3つほど講演を聞いた。どれも面白く本当にためになったが、中でも岩松了氏のお話は興味深いものだった。岸田戯曲賞を受賞した際、別役実さんに「これは不条理劇だ」と言われて、そうなの?と感じ、不条理、とは何だろう?と考えたという話。(選評の一部は
→こちら) これは、YOUTUBEで公開している「岸田戯曲賞を読む」4回目で扱っている内容なのだが(まだ2回目の「小町風伝」の公開途中です。是非聞いてね)予習的にチラリと不条理の一般的な理念を紐解けば、「世界には意味はなく、人間がどんなアクションを起こそうとも、世界には何の影響もない。すべては既に試されたあとであり、物語の最初と最後で、閉塞しきった状況は何も変化がなく、ただ滅亡へと人は進んでいく」ということになる。それに対して、岩松氏は自身の作劇のポイントを以下のように喩えていた。

■例えば、ある晩、妻が夫を刺し殺した、という事件が起きる。だが、近所の者の証言で、二人は前の晩、仲良く買い物をしていたという。旧来のドラマは、この刺殺の現場を(状況的にも、人物の心理的にも)ドラマの中心に置く。だが実は面白いのはそこではない。前の晩、一見仲良く買い物をしている間にも、妻は夫に対する殺意を抱いていた。その思いを生活の中に隠しながら、日々を過ごしていた。極めて平凡に、平穏に。そこが面白いのであり、そこを描くのが重要だ、と。事件を描くのではなく、事件の「前日」を、そこに至るまでの「日常」こそを描く。不条理な世界で、絶対に回避できない世界の終わりや破滅や絶望にただ向かっていくことしかできないのと同じく、この物語の先には、妻が夫を刺殺す、という絶対に回避できない結末がある。そこに至るまでの「普通の日々」を描く。つまり必要なものは言葉そのものの力、などでは決してなく、 その言葉が使われた文脈、コンテクストなのだ。そういう風に捉えれば、確かにこれは完全なる不条理劇である。妻が夫をこの数時間後に殺す、という文脈の中では、普通の、仲睦まじいような会話、或いはなんてことのない会話…「醤油とって」「あれどこやったっけ?」などのセリフでさえ、別のニュアンスを持つし、ホラーにもなる、ということだ。なんの変哲もない、ドラマのにおいさえしない凡庸なセリフを「どこにどのように配置するか」でまるで意味が変容する。言葉の在りようは、いつだってそのシチュエーションに依存している。目の前の人間を、数時間後に殺す、という必然の中で、例えば妻が一言、「ねえ…」「ううん、なんでもない」と喋るとする。破滅が回避できない世界の中で、ウラジミールとエストラゴンが空虚な「遊び」で無為に時間を浪費する姿と、それは同じ風景だといえるだろう。

■世界の在り方は多様で、残酷だ。それは間違いない。私はまた、言葉の無力さ無意味さを痛感しながら、その「無意味な力」でシチュエーションの方を引き寄せようと思っている。不遜だと思う。どうぞ嘲笑って貰って結構だ。

■2019年。年が改まって特に何かが変わるわけでもないが。1月、既に友人みくにさんの写真展でリリーディング公演「天使病」を、メンバーの田村友紀と行った。この脚本は、またバージョンを変えて近くまったく別の形で上演する予定もある。3月は、昨年神奈川の戯曲コンペで最優秀賞を貰った「モダン・ラヴァーズ・アドベンチャー」の柿食う客での上演もある。特に情報も出てこないし、どうなるか私にはサッパリ分からないが、戯曲提供は生涯初なので、それはそれで楽しみだ。気楽だしね。6月には架空畳での公演があるから、4月にはその稽古に入る。大きなたくらみを持った戯曲を毎日、部屋で、喫茶店で、アタマの中で、風呂につかりながら、考えている。書くことはまるで苦しくない。書けなかったことはない。書け過ぎてしまうことが、いつだって問題だ。書いたものを、削り、失い、忘れて、また書く。その作業の中に、たった一つ、すがるようなセリフが現れる瞬間を、待っている。今週木曜の夜まで、演者を募集するオーディションを受け付けているので、そちらも是非よろしく。

小野寺邦彦




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