『誰そ彼と われをな問いそ 9月(ナガツキ)の 露に濡れつつ 君まつわれそ』
誰そ彼?と、対子落としに問い詰めるナガツキ9月をやり過ごし、十月はたそがれの国。
霧むせぶ夜露に濡れなば濡れん。
その晩、私は、
かつて待ち合わせの殿堂、東京新宿東口は紀伊國屋書店本店入り口前に佇んで、
夫とコドモを待っていた。
表通りの雑踏から、一瞬、人々の姿が消えて
、私の背中に
湿った気配が這い寄った。
紅く大きな口を空けた、それは万引きGメンのウワバミだった。
懐の命綱、
埃まみれのブラッドベリを背表紙ごと食い破り、ウワバミは笑った。
濡れそぼったトレンチコートの袖口を引っ張られ、たちまち私は丸のみにされた。
ここは?
新宿紀伊国屋本店前。
ここは?
六本木六丁目、アマンド前。
ここは?
渋谷駅ハチ公前。
ここは?
ガラパゴスのサンクリストバル空港。
そして……そしてただの、雑踏。
雨粒の音。それぞれ「誰」「彼」という一文字が書かれ2本の雨傘が浮かび上がる。「誰」の傘を持った女が、歌を詠む。
女 ……『誰そ彼と われをな問いそ 9月(ナガツキ)の 露に濡れつつ 君まつわれそ』
女、傘を畳んだ。
女 誰そ彼?と、対子落としに問い詰めるナガツキ9月をやり過ごし、十月はたそがれの国。霧
むせぶ夜露に濡れなば濡れん、その晩、私は、かつて待ち合わせの殿堂、東京新宿東口は紀伊國屋書店本店入り口前に佇んで、夫とコドモを待っていた。
「彼」の傘を畳む、トレンチコート姿の男。
男 おマットさん。
女 え?
男 お迎えでゴンス。
女 ハードボイルドエッグを気取ってトレンチコートの袖口濡らした、誰そ彼?
男 平穏なる週末の黄昏時に小石投げ込むさざ波の使者、万引きGメンのウワバミ。
女 万引きGメン?
男 スットボケ!なんですかナ、言い逃れようもない、この懐のブラッドベリは!
と、いうや男、女の懐から文庫本を奪い取る。
女 (胸を抑えて)よくも食い破ったね、十月の感傷を!
男 十月の感傷より養殖のサンショウウオ。 このブラッドベリ、目と鼻と目ヤニの先の紀伊国屋書店三階、SF文庫コーナーから掠め取った戦利品に違いないスね、奥さん?
女 (笑って)カンラカラカラ、あー可笑し。
男 何を高笑う、ボヴァリー夫人。
女 無い袖にこじつけた事実無根の手ぐすねを引くより先に、検印廃止の奥付をご覧。
男 オクヅケだあ?(ペラペラとめくり、奥付を見る)……ああッ!こ、こいつは!
女 1965年12月24日、初版発行。
男 (震えて)半世紀以上もの永きに渡ってホコリを被り続けた、出版業界の生き字引!
女 お分かり?Gメン。紀伊國屋書店3階、海外SF文庫コーナーは、つゆと訪のう者もない、忘れ去られた歴史の墓地。
男 半世紀以上、誰一人、手に取らなかったその棚刺しの一冊を、有史以来、初めて手にしたのがアナタだったというワケですか。
女 歴史の地層より発掘されし、手付かずの文化遺産。その価値に気づきもしない未文化人の住み家より持ち帰り、手厚く保護することが罪だと言うのならば、大英博物館は平謝りの還元セールでロゼッタストーンは母屋の漬物石よ!……アデュー。
女、去ろうとする。が、男、むんずとその手を掴んで。
男 待ちなさいっ!一寸の漬物石にだって五分の魂。例え路傍に転がる石コロであったとしても、誰がためのローリングストーン。通りすがりの旅人が、ロハで持ち帰っていいサンフランシスコ条約じゃないんだ!
女 ではどうしろと?
男 初犯は、警察には突き出さない!それがGメンのダンディズム。ただし。
女 ただし?
男 反省文のヒエログリフに署名・捺印の後、引き取りに来て頂きましょう、ご家族に!当然、事実をつまびらかにお伝えした上で、ネ。
女 家族……おりません。
男 嘘だ!あんた、冒頭のモノローグでヌケヌケと喋った!夫とコドモを待っていると。待ち合わせたと!この紀伊国屋書店、新宿本店入り口の前で!そうですね?
女 ……。
男 よろしい。引き合わせて差し上げましょう、奥さん!(携帯取り出し)さあ、連絡をするんだ!この電話で!さあ!
女 ……確かに待ち合わせました。場所は「ここ」で。けれどね……。
男 けれど?
女 日時を「いつ」にするかまでは、決めていなかったんです。
男 え?
女 何しろあのヒトは……夫とコドモは、とても遠いところにいるものですから。
男 遠い。どこなんです?
女 ガラパゴス。
男 ガラパゴス?
女 そう。それは結婚5年目、あまりといえばあまりに遅すぎた新婚旅行で訪れた、ガラパゴス諸島での出来事だった。
そこは空港となる。
そこは南国、サンクリストバル島。
女 「ピンポンパンポン。え、本日は、イスカリオテの泥舟、当コロンブス航空をご利用頂きまして、誠にありがとうございます。当機は、定刻通り、サンクリストバル空港に無事到着致しました。エクアドル本土より西へ900キロメートル、123ものゾウガメの背中を股にかけた、ガラパゴス諸島でのナイス・バカンスをどうぞお楽しみ下さいませ。……え、続きまして、お呼び出しを申し上げます。クリュセさま。クリュセ・トトヒコさま。ダーウィンズ・ゲートにて、奥様のアリスさまがお待ちでございます。至急、お越しくださいまっせ」
女、妻のクリュセ・アリスとなる。
女 南国の日差しは、不思議と背中に優しかった。ついさっきまで隣のシートに腰かけていたツレアイを間抜けにも待ちぼうけて、ワタシ今、自分自身の影法師に接続された女。
男、トカゲの格好で現れる。
男 おマットさん。
女 え?
男 お迎えでゴンス。
女 誰そ彼?
男 瞼を灼いて背中を焦がしたキミの待ち人、ガラパゴスオオトカゲ。
女 トカゲ?
男 (変装とき)イグアナさ。ユネスコも認めた、ガラパゴスの固有種。ウミイグアナに、リクイグアナ。ブエノスディアス!スペイン語さ!公用語さ!アグア・ポル・ファボール!「水を一杯、下さい」!
女 すぐ馴染んじゃうんだから。
男 郷に入らずとも郷に従う、付和雷同のカメレオン。それが僕さ。トトヒコさ。返します、北方領土。ハハハ。
女 浮かれすぎよ。
男 結婚五年目にして、ソー・タイトな二人のスケジュールがやっとこ折り合ったロングバケーションさ。さ、飛び出そうぜ、二人きりの秘密のバカンスへ(と、崩れ落ちる)。
女 どうしたの!
男 アレ?おかしいな、おかしいぜ。元気だ、すこぶる元気だ(全然元気がない)。
女 マトモじゃないわ!ホテルで休みましょ!
男 ガイドをね、頼んであるのさ。もう来るはずだ。僕はいい。君だけでも楽しむのさ。
女 でも、
男 いいのさ。先にチェックインしておくよ。フライング・チェックイン!ホテルはフィンチ・ベイ・エコのロイヤル・スイートさ!
男、一枚の人物画を女に手渡して、去る。
絵画に描かれた人物(=男)が喋りだす。
男 ブエノスディアス。
女 絵が!絵が喋った!
男 一本の木の幹にだって血が通っているのならば、一枚の人物画が観光地のガイドをす
ることだってあり得るだろう。
女 マッチ擦る束の間の白昼夢、どなたの人物画なんです?
男 サンクリストバル博物センターに収蔵された、チャールズ・ロバート・ダーゥイン。
女 ダーウィン?「進化論」のダーウィン?
男 ウィ。1835年。マゼラン海峡を抜けて、サンクリストバル島へと到着したダーウィ
ンは、 この島のあまりに特殊な生態系に触れ、学び、35日間の滞在の後、白、發、中、進化ロンをツモったのデス。
女 それってどんな大三元?
男 ごらん、ガラパゴスアシカ。ガラパゴスゾウガメ。そしてガラパゴスの象徴イグアナ。
女 あっ、トカゲ。
男 陸イグアナが海に潜って海イグアナが生まれ、陸イグアナと海イグアナがつがって、
水陸両用ハイブリットイグアナが生まれた。
女 なんてイージーな生態かしら。
男 ウィ。イグアナは、体の作りがとってもイージー。生まれた後に、オスとメスとがひ
っくり返ることすら、ありマス。
女 え?
男 メスの数が不足すると、オスがメスに変わるのデス。ガラパゴスのイグアナには、性
別を決定する、XY染色体がひっくり返る個体が、ごく稀にいル。
女 柔軟なのね。
男 ウィ。特殊すぎる環境に、柔軟に、あまりに柔軟に対応してきた。環境に適応する。
すなわち、進化デス。
女 その柔らかさ。私とは、真逆だわ。
男 パードゥン?
女 私、ウマヅメです。
男 ワッツ・ウマヅメ?
男と女がそれぞれ手にした傘を開くと、そこに「石」「女」の文字。
女 石の女、と書いてウマヅメと読むのです。産まない女。妊娠しない女。硬い硬い、石の腹をもつ女。そうやってコッソリと差されてきた後ろ指の数をポコペンと溜めに溜めたマイレージでもって、やってきたんです、ガラパゴスまで。
男 追放、されたんデスね。
女 え?
男 サンクリストバルは、もともとエクアドルの流刑島だっタ。絶海の孤島、社会から追放された罪人を囲っておくにはナイス・ロケーション。
ダーウィンの爪弾くギターで女が歌う。
♪ル・ナ・センタ 幸いの夏
九月をやり過ごせば
ル・ナ・センタ 八月は幻
辿り着くきっと 十月はたそがれの国
女 ……五年です。結婚して五年。子供はできませんでした。私は、硬いのです。夫婦というフォーマットに、五年経っても馴染むことができないでいるのです。だから子供が欲しかった。あれやこれやと世話を焼く間に十年、二十年。その時間が欲しかった。けれど私はウマヅメ。子供を産む腹をもたない、石の女。……夫は、あのヒトは私とは真逆です。柔軟です。グニャグニャなんです。どんな環境にもすぐ馴染む。我儘だって聞き入れてくれる。私はそんな柔軟な夫のことが嬉しく、頼もしく、羨ましく、そして
男 そして?
女 そして……疎ましい。
絵画のダーウィンはいつの間にか消えている。
そこはホテルの部屋。傘を畳んで女が入ってくる。頭から毛布をかぶって、男が寝ている。
女 (男に)どう?調子?
男 ウン。
女 調子戻ったらさ、今晩、頑張っちゃう?環境変われば、ね。デキちゃうかも。
男 ウン。
女 イグアナだってサ、性別代えてまでの執念燃やしてつがってんだって!万物の霊長たるヒューマノイドがよ、爬虫類ごときにスケベで負けてどうすんだって。
男 ウン。
女 ……トトヒコさん?
女、男の被っている毛布をめくると変わり果てた男の姿。
男 おろろろろろ!(と、口から大量のタマゴを吐き出す)
女 ギャーっ!なななな、ナニ?
男 メ・クエ・デ・エンバラサダ。「私は、妊娠しました」。
女 ハ?
男 (タマゴを指さし)そして、出産しました。
女 はあ?
男 柔軟さ。あまりに柔軟な男さ、僕は。付和雷同のカメレオンが、朱に交わったガラパゴスの環境に、ついうっかりと適応しちまった。
女 どどど、どんな背に腹を変えられぬ事情で?
男 半世紀に一度、未曽有のメス不足。
女 メス不足?
男 この夏のメス不足は、どうやらあまりに深刻でね。足りなかったのさ。一部のオスイグアナのX染色体がひっくり返るくらいじゃね。
女 そそそ、それで代わりにアナタが?
男 そうさ。僕さ。クリュセ・アリスの夫トトヒコは、貴重なるガラパゴスの種を絶滅の危機より救い、メスイグアナになりました。(錯乱気味に)ユネスコの表彰台は貰った!
女 あなた!
男 ……ごめんよアリス。もう君を抱くことはできない。メスのイグアナじゃあね。国際天然記念物を守ることはできても、夫婦間の人口問題には無力な僕さ。
女 ……埋めましょう。
男 え?
女 タマゴ。このままじゃダメ。砂浜に埋めて、保温しなきゃ。(ググって)ええと、イグアナのタマゴが孵化するために必要な温度は……31℃ね。バーチャス・ビーチがちょうどいいわ。さ、夜が明ける前に。
女、手をだす。男、少し躊躇して、その手を握った。
夜の海岸。波の音がする。二人、穴を掘りながら。
女 一つ、穴ほりゃ、父のため。二つ、穴ほりゃ、母のため。三つ、誰が為、私はタガメ。
……メスの夫が産んだ卵のために砂浜を掘るって、思ったよりとってもコーフンするじゃん。
男 何だかさ、何だかね。これって新しいセックスかもね。
女 砂を掘るって、そうね、生殖行為だったのね。種付ける性に、はらむ性。そのどちらとも異なる、そうよ、私ってば、掘る性だったんだ……。
男、自らが掘った穴に埋まり、姿が見えなくなってゆく。
男 もっと掘るんだ。もっと、もっと。
女 (ハッと)アナタ、今、どこ?
男 そうね、大体ね、地表からホンの七百里ばかり奥のモホロビッチ不連続面。
女 それってどんなメガマリオン?
男 星を人だと例えるならば、肉と皮膚との中継地点、地殻の奥のマントル。
女 マントル?
男 鵯越の、逆落とし!
穴が出来上がる。男の姿は、穴の中に完全に隠れる。女、その穴に、次々とタマゴを放り込む。
女 桜、忘れろ。霧、抜けろ。春の日、はるの日のたりの日……。皐降れ降れ、もっと降れ!
男 彗星だ!彗星が降ってきたぁ!
女 アルビン号、応答せよ。アルビン号、応答せよ。
男 こちら深海探査艇アルビン号。大変な発見をした。2600メートルものガラパゴス深海で、なんと摂氏350℃もの、高温噴水が発生している。
女 生命は確認できるか?
男 バクテリアに二枚貝、甲殻類まで生存している。
女 仮説が裏付けられた。生命は、このガラパゴスの海で誕生したのだ!
男 どんな机上の空論なんです。
女 原始地球は彗星の衝突による環境変化によって、死の星であった。マントル付近の超深海のみが、安定した環境だったのだ。高温の噴水によって合成されたアミノ酸や有機物質が、巡回する海水で冷やされ保存、そして再び温水によってたんぱく質、そしてDNAが生まれたのだ!やがて海水に満たされたプランクトンが地表に浮かび、彗星のバラまいたウィルスと化合して、リボソーム、リソソームが生成された!海水と、彗星。それが出会ったのが、ガラパゴスだったのだ……。アルビン号、帰還せよ。私は生命の誕生に立ち会った!こうしてはいられない。戻らなくては、祖国へ!アルビン号?どうした、アルビン号?帰還だ!帰還するんだ!アルビン号!
男 ……。
場面は再び空港へ。
そこはサンクリストバル空港の出国ゲート。うろちょろする女に、税関職員の男が声をかける。
男 列を乱さないで!出国のゲートへは、どうぞまっすぐ、お並び下さい。
女 衣擦れた慇懃無礼に口角を吊り上げた、誰そ彼?
男 税関職員のウワバミです。失礼ながらレディー、そのお荷物は、なんです?
女 おみやげですわ、主人への。体調を崩してネ、一足先に帰国したものだから。
男 (奪って)X線にかけろ!
荷物の中が透け、そこにはイグアナの影が映る。
女 アナタ!
男 密輸だな!リクイグアナはガラパゴスの固有種。国外への持ち出しは、重大なるワシントン条約違反だ!国際的犯罪だ!
男、女の腕をむんずと掴んだ。
女 離しなさい、税関職員!糠床もかき混ぜたことのないその手で、よくも母屋のロゼッタ―ストン、背に腹を変えられぬ漬物石に触れてくれたな!
男 クリュセ・アリス。ユネスコの刑事事件判例に則って、禁固4年!
ガシャン、と冷たい檻の締まる音。
女 私はウマヅメ、石の女。孕まぬ腹を抱えて糠床をさらっても、冬の朝、指先は冷たく、
麹菌が爪に食い込むばかり。握り込んだ手を開いても、そこには何もない……。
と、絵画のダーウィンが現れる。
男 ブエノスノーチェス。
女 絵が!絵が喋った!
男 1831年。ダーウィンは、測量船ビーグル号の中で、ロバート・フィッツロイ艦長
に反乱した懲罰として、3日間、船倉での禁固刑を受けタ。
女 その歴史上、類まれなるダーウィンの英知をもってして、この牢獄から抜け出す方法を
レクチャーして下さるの?
男 ストリップしかナイ。
女 ……ハ?
男 ストリップ、すなわち裸踊りデス。固く閉ざされし岩屋のカンヌキを外すのは、アメノウヅメの裸踊り。神国ジパングに古来より伝わる、由緒正しキ方法デス。
女 一介の漬物石に過ぎないウマヅメ如きが、ススス、ストリップだなんて、そんな。
男 踊るアホウに見るアホウ。ストリップのコツは我を忘れて、マヌケに徹しきることで
ス、ウマヅメ・レディー。
女 ウマヅメを、マヌケに。
男 ウマヅメから「マ」の字を抜けバ?
女 ……ウ・ヅ・メ?
男 アメノウヅメ!
女 え?
男 ミュージック!
激しい音楽。女が躍る。いつの間にか、ダーウィンはトトヒコに変わっている。二人、電話で通話する。
男 アリス。
女 トトヒコさん。
男 僕は残るよ。子育てを終える頃、帰るからね。何人か、連れてさ。待ち合わせしよう、出会った頃のように。900光年先から飛んできた彗星が撒き散らしたウィルスと、深海2600メートルで生まれたバクテリアが、ガラパゴスの海で待ち合わせ、混ざったように。
女 気の遠くなる時間ね。
男 場所を決めておくんだ。
女 ここは?
男 新宿紀伊国屋本店前。
女 ここは?
男 六本木六丁目、アマンド前。
女 ここは?
男 渋谷駅ハチ公前。
女 ここは?
男 ガラパゴスのサンクリストバル空港。そして……そしてただの、雑踏。
女 え?
男 彗星よ、わが胸に堕ちよ!
舞台上、そして客席の至る処から、携帯電話の着信音!牢獄の門が空き、全てが光に包まれ、見えなくなる。暗転。
暗闇からアナウンス(=女の声)が聞こえる。
女「ピンポンパンポン。え、本日は、新宿紀伊國屋書店本店へお越しくださいまして、誠にありがとうございます。お客様のお呼び出しを申し上げます。クリュセさま。クリュセ・トトヒコさま。奥様のアリスさまがお待ちでございます。至急、最寄りのカウンターまで、お声掛け下さいまっせ」
男の姿が浮かび上がる。
男 それは、小雨のそぼ降る秋の日の黄昏時、店が最も混雑する、土曜の夕方17時半過ぎだった。縱橫に行き交う鉛色の群衆の中で、不意に、1人の婦人の姿が、私の目に飛び込んできた。
女の姿が浮かび上がる。女、男に背を向けて歩いてゆく。
男 物憂げにまつ毛を伏せたその顔を観た瞬間……これは、ヤル。万引きGメンの勘が、本能が、そう訴えた。私は獲物を見つけた喜びで、内心、舌なめずりをした。あの背中を見失ってはいけない!
女、姿を消す。男がその後を追ってゆく。
男 ……そこに、彼女がいた。混み合う店内で、誰もが足を止めることなく通り過ぎる、白昼の死角。海外SF文庫コーナー。ミッシリと書棚に詰まった背表紙は、一体、何年、何十年、人の指に触れていないのか。
女、文庫本の背表紙を指でゆっくりとなぞってゆく。
女 『レモンは嘘をつかない』
男 『これより先怪物領域』
女 『熱い太陽、深海魚』
男 『おめかけはやめられない』
女 『どこからなりとも月にひとつの卵』……美しい書名、美しい背中たち。誰一人手を触れぬまま瞬間冷凍された、手垢にまみれぬキラキラの墓碑銘たち。『73光年の妖怪』……『分解された男』。
男 その人は、まるで地中に穴を掘るように、抜き取った文庫本の空間、ホンの僅かな隙間を愛おしそうに眺めては、書棚に本を戻し、そしてまた隣の文庫本に手を伸ばす……。
女 糠床をね、かき混ぜていたんです。冷たい糠の中に指を差し入れて、爪の先にコツンと手応えのあるその瞬間を、待ちわびていたんです。『永遠へのパスポート』……『溺れた巨人』……『接続された女』。
男 『十月はたそがれの国』!
男、女の手を捻り上げる。女の手から、文庫本が落ちる。
男 万引きを咎められた下手人は、決まって釈明のコトバを言い募る。泣きながら、開き直りながら、媚びながら、様々な言い訳を並べ立てる。私は、そのハナシを、黙ってすべて飲み込む。飲み込んで、そして、家族に連絡して……引き渡す。それだけだ。Gメンに物語は必要ない。ウワバミは全てを飲み込むんだ!
女 けれど気づいたのではないですか?たった一言、飲み込もうにも飲み込めない一文字に。五十音の全てを飲み込むウワバミの喉に刺さったシッボの一音。ウは宇宙船のウ。スは宇宙のス、そして……、
男 『ん』だ!たったの一文字によって隠蔽された、これは万引きじゃない、マビキの物語!
女 ま、び、き……。
男 あなたは南国の砂浜に、生まれて間もない子供を埋めた。けれど、その子供は本当に、アナタの子供だったのですか?そして、そしてご主人は……アナタの待ち人は、もう二度と、現れることはない。そうなんじゃないですか?
女 ……糠床。
男 え?
女 糠床をかき混ぜたことがないでしょう?冬の朝、指先は冷たく、麹菌が爪に食い込むばかり。握り込んだ手を開いても、そこには何もない……。何もない……。
店内が暗くなり、『蛍の光』が流れ始める。
女 全てを飲み込んだウワバミよ、私を告発しますか?私は……固い腹を抱えたウマヅメの妻であり、進化論の信奉者であり、深海の底で生命の誕生に触れた海洋学者であり、そして呪われし……子殺し、マビキの殺人犯。
男 そして……そして、一冊の文庫本を万引きした、平凡な、待ちぼうけの主婦だ。
女 え?
男 私は万引きGメンだ。進化論も人類の誕生も殺人も、関係がない。それが本当でも嘘でもどうでもいい。ただ一つの万引き。それだけが全てなんだ。初犯は警察には連絡せずに、反省文に署名捺印の上家族に連絡し引き渡す。それだけだ。それだけが、私の。
女 待ちますよ。
男 え?
女 夫とは、場所だけを決めたんです。きっと、時間がかかるから……。遠いガラパゴスの地で子供たちが一人前になり、ワシントン条約の檻をくぐり抜けてあの人がやってくるまで、途方もない時間が。8月は幻、9月をやり過ごしても、辿り着く10月の雨に打たれながら、それでも、あなたは……。
男 待つ。待ち続ける、アナタと。無限に近い時間がかかるとしても。永久にそのときがやってこないとしても。人類が誕生するはるか昔、あの南国の砂浜で彗星と海水とが待ち合わせたというのなら、私が、アナタの砂浜になる!私は万引きGメンのウワバミ。万引犯のあなたを、遠いガラパゴスから迎えにやってくる家族に引き渡すまで、例え人類の歴史が終わろうともこの手を離すことはない、絶対に!
その瞬間、携帯電話の着信音が舞台上のさまざまな場所で鳴り、人々の群れが通り過ぎる音がする。
女 ……彗星が通りすぎる。それぞれの砂浜へ向かって。尻尾に繋いだ箒星、滑稽な音楽を
バックビートに従えて。
男 ここは?
女 新宿紀伊国屋本店前。
男 ここは?
女 六本木六丁目、アマンド前。
男 ここは?
女 渋谷駅ハチ公前。
男 ここは?
女 ガラパゴスのサンクリストバル空港。そして……そしてただの、雑踏!
激しいスコールの音。男の姿が闇に消え、女がたった一人、そこに取り残される。
女 ……そこにいるの?この手を握ってくれているの?濡れそぼった袖口の……誰そ彼?
スコールの音を残して、全ては闇に消えてゆく。オワリ。
2018年
1月25日(木)~ 28日(日)
KAAT神奈川芸術劇場大スタジオ