その日、目が覚めると娘は消えていた。
幼い頃から根を張り続けた子供部屋はカラッポで、替りに家の外壁に残された…『Φ』の文字。それが私には、鍵穴に見えた。娘からのメッセージだ。この鍵穴を抜けて、逢いに来いというメッセージ。
男親にとって、国境よりも高いハードルを越えて娘の部屋に立ち入った私の目に映ったもの。それは学習机の前に置き去りにされた、一台のデスクトップ・デバイスだった。オモチャに毛の生えた程度の容量しかもたないソレは、娘がまだ大分幼かった頃にねだられて、手に入れたリユース品をさらに修理して与えたものだ。キーボードにうっすらと積もったホコリを払うつもりで撫でた人差し指が偶然、電源タップを撫でたその瞬間、
デバイスの電源が入った。
そこに残されていたのは娘の日記。私の知らない、娘の物語だった。
…娘の名前は、ユーリ・ハビット。「ハビット」とは…身に沁みついて拭えない悪癖のことだ。
父は、作家でした。
どんなジャンルの作家だったのか、何を書いていたのか?分かりません。著作のアーカイブは残っています。言うまでもなく、デジタル・データです。けれどそれを今、読むことは出来ない。と言うより、読み解ける者が存在しない。そう、父は言語統一時代以前の作家だったのです。
父の著作をネット翻訳にかけると、出てきた文字は…『Φ』。コトバを別のコトバに移したとき、置き換える言葉が見つからなかった際に現れる文字化けの記号。父が何を書いていたのか?どうしても知りたかった私は、その著作の一部をネットに放流し、読める人を探し…そして見つけた。今は消えてしまった国、その母国語の中でも、さらにローカルな「なまり」まじりで書かれた父の著作。そこには私の知らない父と・そして私の物語があった。
…父の名前はユージン・ハビット。「ハビット」とは…そのヒト自身も気付いていない美点のこと。
何も無い空間。ユーリ・ハビットが眠っている。その周辺を人々が漂っている。そこは宇宙空間かもしれない。
ユーリ …眠ってしまいました。眠りはいつも過去形です。目覚めて初めて、今、自分が眠っていたことを知る。振り返って分かる。それは歴史と同じです。過ぎてしまったあとでだけ、その姿が分かる。
つまり今という時間に生きる人間は、みんなが皆、一つのベッドの中ですっかり眠ってしまっているのと同じなのです。
ユーリ、周囲に浮かぶ人々に飲み込まれる。ユーリの言葉を人々が、代わる代わる喋ってゆく。
人々1 …飛躍しました。脈絡ナシの跳躍は、私のクセなのです。
人々2 地に足がつかない、それが私の個性であり、悪癖と呼ぶべき「ハビット」。
人々3 …ネームプレートを確認して下さい。「ユーリ・ハビット」。それが私の名前。
人々4 確認したら、忘れても大丈夫。このお芝居の中で、何度も出てくる名前だから。そもそも、名前というものは…、
人々5 いけない。また飛躍してしまうところでした。地に足をつけて、順を追いましょう。私という歴史の、足跡です。
人々6 父は、作家でした。どんなジャンルの作家だったのか、何を書いていたのか?分かりません。
人々7 著作のアーカイブは残っています。言うまでもなく、デジタル・データです。けれどそれを今、読むことは出来ない。
人々8 と言うより、読み解ける者が存在しない。そう、父は言語統一時代以前の作家だったのです。
人々9 地球儀の染み、とまで呼ばれた極めてローカルな、今は消えてしまった国、その母国語の中でも、さらにローカルな「なまり」まじりで書かれた父の著作を判読できる者は、この宇宙上には既に、存在しないでしょう。もっとも…、
ユーリ それが出版された当時でさえ、読んだ人は殆どいなかったハズです。父は、ちっとも売れない作家だったのです。
人々1 父は、自分の言葉に絶対の自信を持っていました。
人々2 けれどそれを読む者はいなかった。
人々3 悩みました。どうすれば、世界中の人間と、
人々4 自分の言葉とを出逢わせることが出来るのか?
人々5 それで、
人々6 それで、
人々7 それで自分の子供を、
人々8 つまり私を、
人々9 宇宙飛行士、にすることを思いついたのです。
ユーリ …飛躍しましたね。私の全身に血となって流れる脈絡なしの跳躍クセは、父ゆずりの性格で間違いありません。…順を追いましょう。
人々1 「地球は青かった」
人々2 「何度探しても、ここに神は存在しない」
人々3 「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大なる飛躍だ」
人々4 「宇宙からは国境線は見えなかった」
人々5 「地球は、遠ざかるほどに輝くビー玉だった」
人々6 「宇宙を知った人間は、決して前と同じ人間ではいられない」
人々7 「この美しい星に産まれてよかった」
人々8 「地球は人類のゆりかごである」
人々9 「私は三度地球を離れたが、他に行く場所はなかった」
ユーリ 「私はカモメ」…すべて、かつての宇宙飛行士たちが残した言葉です。
人々1 宇宙に出かけ、
人々2 そして帰還した人間の言葉は全人類に伝えられ、歴史の終点まで残り続ける。
人々3 そうです。父は私を宇宙飛行士にして、
人々4 その言葉を預けようと考えたのです。
人々5 いつか私が宇宙から、全人類に向かって
人々6 父の言葉を喋る、その瞬間にかけた。
人々7 つまり、テロです。
人々8 言霊的テロリズム。
人々9 けれどその言葉を、
人々1 言葉を、
人々2 言葉を、
人々3 言葉を、
人々4 言葉を、
人々5 言葉を、
人々6 言葉を、
人々7 言葉を、
人々8 言葉を、
人々9 言葉を、
ユーリ 言葉を、私は…。(しばしあって)そんなわけで、私は宇宙飛行士になりました。なりました、というこの一行さえあれば、なれてしまえるのが物語の素晴らしい「ハビット」、すなわち・美点です。
と、空間の外側からガリガリと、何かを削る音が聞こえてくる。
人々1 さて、お時間です。
人々2 今、私の眠るベッドが解凍されようとしています。
人々3 閉じられた鍵が開く。すると物語が始まるでしょう。
人々4 跳躍に満ちた、びっくりするようなホラ話。
人々5 或いは地に足のついた、堂々たる一代記。
人々6 私は、ワクワクしています。あなたも、そうですか?
人々7 なお、このプロローグは、あなたが統一言語以前の時間に生きた人間である可能性を考慮して、
人々8 現存するデータに基づいた多言語同時並列翻訳にて、お送り致しました。
人々9 紹介します。私の言葉を翻訳してくれた仲間たち。この物語の登場人物たちです。
カーテンコールのように人々が横一線に並ぶ。するとそれぞれの頭上に『Φ』の文字が浮かぶ。
ユーリ …ネームプレートを確認して下さい。ユーリ・ハビット。物語の中でまた、お逢いしましょう。…ねっ。
鍵の開く音。轟音。人々は散り散りになる。
ユージンの家。外壁で作業するソユーズの姿。
ユージン おい、鍵屋。
ソユーズ ハイ。ボク、雇われ鍵屋のソユーズ・モローです。
ユージン ナニやってんだ、ヒトんちの外壁に!
ソユーズ 鍵は鍵屋。ご覧のとーり、鍵を取りけてマス。
ユージン バカ!カベに鍵くっつけてどーすんだ。
ソユーズ ダンナ。アナタは言いました。ドアに鍵をつけるんじゃナイ。鍵をつければ、そこがドアになる。ドアが出来れば、その中身は部屋になる。…ねっ。
ユージン 得意げな顔するな、バカ。だからその鍵の、そのドアの、その部屋を、一体誰がオーダーしたんだ?って聞いてんだ。
と、そこへテレシコワとノーマン、現れる。
テレシコワ 私がオーダーしましたっ!
ユージン あっ、あんた娘の友達の。
テレシコワ テレシコワ・ジーンですっ!今日からこの鍵の、このドアの、この部屋の中には、ワ・タ・シがスッポリ収まって…ガチャリ!ロックをかけて引きこもります、ヨロシクっ!
ユージン ええっ?
テレシコワ ヨロシクっ!ノーマン、お手っ!
ノーマン ハッ。
テレシコワ おかわりっ!…と・返した手の平でもって、原住民への説明をお願ーいっ!
ユージン 原住民?
ノーマン 失礼。誠に勝手ながら…この土地のこの場所は、買い取らせて頂きました。宅のお嬢の懐に有り余る、財力でもって。
ユージン 聞いてないんだけど?
ノーマン ユージン・ハビットさん。あなた…移民ですね。
ユージン どきっ。
ノーマン 戦争で失われた国家のご出身。住む土地を無くした、本来、根無し草の身の上だ。だが我が国の温情によって、特別にこの場所に住むことを許可されていた。…そーですね?
ユージン それがどーした。
ノーマン つまり、この土地の権利は国家にある。アナタじゃない。分かるでショ。我々が交渉したのは、国家です。そして無事、この場所を買い取らせて貰った。そゆこと。
ソユーズ 口を挟みます、鍵屋の分際で。…どーして、この場所を?
テレシコワ 聖地だからですっ!
ソユーズ・ユージン 聖地。
テレシコワ 言語ではなくっ!脳波で会話を行うヘルツ・メイト・ネットワークっ!その中で集まった私たち『空集合の会』っ!…発起人であるユーリ・ハビットは、我々をこの地に集めたっ!その中心である、自分自身は不在のままっ!
ユージン リーダーが不在なら、会は解散だろ。
テレシコワ そーじゃないんですっ!中心「以外」である我々を集めることで、彼女は不在でありつつ、同時に中心である…それを実現したのですっ!。
ソユーズ 子供部屋の中に子供が生えてくるように、中心以外が集まれば、その中に中心が生えてきますね。
テレシコワ よくシリンダーの回る鍵屋だわっ!お抱えにするわっ!
ソユーズ エヘヘ。鍵は、鍵屋です。エヘヘ。
テレシコワ 鍵が鍵屋であるようにっ!空(くう)はどこまでいっても、空っ!…空集合は、要素のない集まりっ!何も持っていない・何の意味もない・どこにも属さないっ!その「属さない」という性質でもって、不在の中心に所属するっ!…代表であるユーリ・ハビットの「不在」を守るため、今日から私・テレシコワ・ジーンが、この地に引きこもり、鍵をかけ、そして…
ソユーズ そして?
テレシコワ そして、発信しますっ!無限の孤独、無限の夜、無限のヘルツ・メイトに向けてっ!ユーリ・ハビット。彼女に変わって、彼女のコトバを、脳波に変換してっ!この虚無の中心、聖地からっ!そーよ!そーだわ!そーに決まったぁ!…ぷっつん。
と、テレシコワ倒れる…ところをノーマンが、サッと抱きとめた。
ノーマン …と、ゆーコトと次第でして。申し訳ございませんが、即時・立ち退きをお願い致します。
と、空間が一瞬、フリーズする。
ユーリ …こうして、父と、そして私は、帰る家を失ったのでした。私が集めた仲間たちの会は…テレシコワ・ジーン、彼女の情熱と財力によって爆発的な発展を遂げ…やがて国家をも動かす大事業を成し遂げることになるのです。…後に彼女は、ネットワーク内において、こんなログを残しています。
凍り付いた時間の中で、藍がテレシコワにインタビューする光景。傍らに、ノーマン。その背後に人々。
藍 テレシコワ・ジーン。あなたがこのコミュニティの代表ですね?
テレシコワ (穏やかに)いいえ。私は代表ではありません。
と、背後から人々の質問が飛ぶ。
人々 ウソだっ!
テレシコワ ウソではありません。
藍 では、ナンですか?
テレシコワ 「代理」です。
藍 代理。
テレシコワ 『空集合の会』に、中心はおりません。不在です。永遠の不在。その不在の部屋に内側から鍵をかけ、ドーナツの輪っかを見張る管理人。それが、私。
人々 この会の目的は?
テレシコワ ありません。ただ、集まること。そして、不在の中心たる、ユーリ・ハビット、彼女の残したコトバを、脳波に変換して流し続けること。それだけ。
藍 ユーリ・ハビット。…あなたのログにだけ、たびたび現れる、伝説のオーガナイザー。その不在の中心人物ですが…こんなウワサが流れているのをご存じですか?
テレシコワ どんなウワサでしょう?
藍 その人物は…本当に、実在するのか?
人々 ザワザワザワザワ。
テレシコワ 不在という形で実在する。そうとしか、表現できない。
人々 あなたは、責任逃れをしているのでは?
テレシコワ 責任?
藍 このコミュニティに入り浸り、言語を喋らなくなってしまった人々が、少なからず増えている、という報道があります。
人々 会としての声明をお出しになるべきでは?
テレシコワ 私の病気のことは?
藍 …伺っています。
テレシコワ 『エクスポーネンシャル・エモーション』…指数関数的感情障害によって、私は言語を介したマトモなコミュニケーションが取れなかった。ただ幸運なことに…言語を介さず脳波と脳波でコミュニケートするこの技術が・私が生きている時代に開発されたことで…今、私とアナタだって・こうして問題なく会話することが出来ている。
人々 同情だ!同情を誘って誤魔化すつもりだ!
藍 (その言葉に対して)…シッ!
テレシコワ (藍に)分かりますか?分かりますね?私を救う目的で、技術が産まれたのではない。何の目的もなく産まれた技術が、結果として、たまたま私を救った。
藍 たまたま…。
テレシコワ 『空集合の会』…このコミュニティに目的はない。ただコミュニティが存在するだけ。それが結果として…たまたま、誰かに・何かを与え、そして…
藍 そして?
テレシコワ そして、奪うこともあるでしょう。私はそれを否定しない。肯定もしない。私は代理。不在の中心に、本来佇むはず(と、ハナシの途中で)…ぷっつーん。
ノーマン 会見は、以上となります。脳波をお返し致しますので…手の平返して、存分に噛みついて下さいネ。お手・お代わり…ガブッ!
再び時間が凍り付く。ユーリ、その光景を眺めて。
ユーリ テレシコワ・ジーン。結局、私が彼女と直接出逢うことは一度もなかった。でも…。私は、彼女のことが…とても・とても…大好きだった。
時間が解凍される。家を失い、森を彷徨うユージンの姿。ついていく藍。
藍 …おとーサマ?
ユージン …。
藍 おとーサマ。ねえ、おとーサマってば!
ユージン うるせえんだよ、日記帳の分際で。
藍 そろそろ、ブっとい回線の電気で充電させて下さいよォ。モバイルバッテリーの電気、マズぅっ。
ユージン しょーがねえだろ、家を追い出されちゃったんだから!
藍 だからって、どーしてこんな森の中なんかをウロウロするんデスぅ?
ユージン …私は移民だ。
藍 移民?
ユージン 今は無くなってしまった別の国の出身なんだ。特別に許可されていた、あの場所の、あの家以外、この国に居場所はナイ。
藍 森には居場所がアルんすか?
ユージン 居場所は作るんだ。娘が帰ってきたとき、「ただいま」と開けるドアを用意しておく。それが親の役目だ。誰もいない場所で、イチからやり直す。
と、そこへチトー現る。
チトー 甘い。甘いなぁ。
藍 えっ?
チトー プイシュキーヤ・オン・ジェリャボヴァのドーナツよりも甘~い。
ユージン あっ、チトー。チトー・モロゾフ。
藍 ポポポ、ポーン!おとーサマの旧~い、お友達デスね。
チトー そう。笑顔がステキな交番のお巡りさんであり、趣味でハードボイルドな探偵やってます、私が、チトー・モロゾフです。(コッソリと)ユージン・ハビット。今、裏でキミの手配書が回ってる。
ユージン えっ…?
チトー 居場所、言動、接触した人間。警官の私は、それを上に報告しなきゃならん。…ふぅー(と、息を吹く)
ユージン 一体、どうして?私は何も…!
チトー 家を失った移民がウロついている。理由はそれだけで充分さ。分かるな?分かるだろ?同じさ、警官という立場を離れれば、私だって…。
藍 大変!万が一にも人目につかないよう、もっと森の奥へ行きましょ、ソーしましょ!
チトー だからそれが甘い、と言ってるんだ!フスピシュカ・グランデのスノーエクレアより甘いっ!…いーか、よく聞け。ヒトの視線から逃げ回る為に、ヒトのいない場所へ向かう。それはシロートだ。
藍 ピーン!ハイ、分かった!コー言いたいんデスね。ズバリ、木を隠すなら、森の中。
チトー ザッツライト。木を隠すなら森、魚を隠すなら釣り堀、そして…ヒトを隠すなら、人込みの中。
ユージン・藍 そのココロは?
チトー 人込み、すなわち…デパ地下だっ!
ユージン・藍 えっ?
そこはクレムリンデパートの地下フロアとなる。
ユーリ 先生。
ヴァレリー と、呼ばれて物語のクライマックスと回想シーンのとば口に立つ、私・数学教師のヴァレリー・スージアです。
ユーリ 先払いした分の情報を受け取りに来ました。
ヴァレリー 等価交換の先払いね。…ナニが知りたいの?
ユーリ 父と…私がやってきた場所のこと。
ヴァレリー …かつて「地球儀の染み」とまで呼ばれるほどにローカルであったあなたの祖国。その小さく、けれど永かった歴史は、たった一発の爆撃で、ある日、永久にふっとんだ。
遠く、爆撃の音が聞こえた気がする。ユーリ、その音にしばし、耳を澄ませて。
ユーリ 国が消えてしまったわ。
ヴァレリー 国は消えた。でも、人は消えない。国土を失い、あぶれた人々は…ひと固まりにされ、まとめて地下に幽閉された。
ユーリ えっ?
ヴァレリー 一平方メートルに60万人。わずかデパ地下ほどのフロア面積に、生き延びた一国の人間たちが、全て押し込められた!
その瞬間、背後で密着したまま動かない人々から、僅かに呻き声が聞こえた気がした。ユーリ、その人々を見て。
ユーリ 知ってる。…私は知ってる。この景色。暗く、寒く、息苦しく、でも…たまらなく、懐かしい。そうだきっと、私は…ここからやって来たんだ。
と、密着した人々の中から、ノーマン現れて、時間が解凍される。
ノーマン この中に、バイリンガルはいるか?爆弾を落とした国と、落とされた国。その両方の言葉をツーカーに行き来できる者は?
シャタロフ …私が。
ノーマン よし、採用。いいか、これから記録を取る。パブリックな記録だ。仕事をすれば、お前をここから出してやる。
シャタロフ どんな仕事です?
ノーマン 翻訳だ。
シャタロフ ホンヤク。
ノーマン 戦争は一瞬だが、戦後処理には永い時間がかかる。その検証作業の中で、未来、この地下フロアの存在が、露見する日が来る。この場所で・かつて一体、何があったのか?その公式見解を、爆弾を落とした国と・落とされた国。双方の言語で残しておく。
シャタロフ 極めてフェアーで、人道的な仕事ですね。
ノーマン では、インタビュー。…この場所に、人間はいたか?
シャタロフ え?
ノーマン 人間はいたか?
シャタロフ 勿論、いました。人を隠すなら人込みの中。無秩序のカオスに放り込まれた、私と、私たちが、ここに!
ノーマン …その言葉は我が国の辞書にはナイ。すなわち翻訳して置き換える言葉がない。
シャタロフ えっ?
と、その瞬間、人々の頭上に『Φ』の記号が現れる。
ノーマン 文字化けだ。判読不能。未来の歴史の為に今、翻訳作業を進める。…この文字(『Φ』)が指し示しているモノはなんだ?
シャタロフ 人間です。
ノーマン 違う!「人間」という言語は我が国の辞書にも登録されている。文字化けは起こさない。ならばコレ(『Φ』)は人間とは違う、別のモノを指すコトバだ。そーだな?…もう一度聞く。かつてこの場所に、人間はいたか?
永い沈黙。
シャタロフ …いませんでした。
ノーマン では何がいた?
シャタロフ 分かりません。ただ、人間ではありません。人間である・という条件と要素を持たないモノの集まり。ここにあるのは、その痕跡だけ。
ノーマン 言質を取ったぞ。この場所に人間はいなかった。人間以外の何かが、押し込められていた。それは例えば…そう、ねずみ、だ。
シャタロフ ねずみ…。
ノーマン 地下にのたくう、ねずみの群れ。…振り返って見ろ。闇の中で、目玉だけがギラギラと光って反射する…間違いナイ。あれは、ねずみだ。
シャタロフ、振り返る。密着した人々、その視線をギラギラと光らせる。
シャタロフ …ひっ!
ノーマン 仕事は終りだ。ホラ、チョコレート。美味いぞ。スイーツは我が国の主要産業。これからは食べ放題だ。
シャタロフ (口にして)…甘い。でも、苦い。
ノーマン その苦さと共に、あなた達は我々への恨みを忘れないだろう。だが記録には残らない。憶えておくといい。我々があなた達を埋めなければ…あなた達が、我々を埋めるのだ。憶えたか?憶えたな?…お手、お代わり…ガブッ!と、いつか手の平返して、存分にこの腕に噛みつくといい。…おい、鍵屋。
ソユーズ はい僕 鍵屋のソユーズ・モローです。
ノーマン この歴史とこの言葉に鍵をかけておけ。…出来るな。
ソユーズ 勿論です。鍵っつのーはね。開けちゃいけない・開けて欲しくないドアにこそ、とり付けられるモンなんです。…鍵屋冥利につきますよ。
ソユーズ、密着した人々の群れに戻ると、内側からガチャン!と鍵の閉まる音。と、シャタロフの時間が解凍されてユーリに話しかける。
シャタロフ お嬢ちゃん。オレ、仕事終ったよ。
ユーリ え?
シャタロフ お父さんの本の、翻訳。悪いね。時間かかっちゃって。…ハイ、これで全部。
ユーリ (受け取って)…たった、これだけ?元の本の厚みの三分の一もない…。
シャタロフ そういうモンなんだ翻訳って。元のコトバから、別のコトバへ。置き換えられる部分だけが残される。
ユーリ 置き換えられないコトバは、どうなるの?
シャタロフ 捨てられる。コトバからコトバへ移すとき、言語としての要素を満たさなかったモノは、まとめてゴミ箱へ。
ユーリ 手元に残るのは…たった、これっぽっち?
シャタロフ そーだよ。一緒だよ。歴史も、物語も。でもさ、その本の中でただ一行、あのコトバだけは…そっくり・オリジナルだ。
と、その瞬間、藍とユーリの姿が重なる。ユーリと藍のユニゾンに、背後の人々の声も重なる。
ユーリ・藍・人々 『ねずみが出ました、星ねずみ。重ねて、畳んで、骨めぐり』
シャタロフ パチパチパチ!我ながら、名訳だ!コレだけは、残しておかなきゃいけない言葉さ!…ンじゃオレ、しばらく身を隠すよ。この翻訳作業、バレたらヤバいから。
ユーリ どこに隠れるの?
シャタロフ 木を隠すなら、森。人込みは苦手だけど。一糸乱れぬデパ地下のステップに偽装して、やり過ごすさ。そいじゃ。
シャタロフ、再び密着した人々の群れに戻る。背景の時間、再び凍り付く。ユーリ、手元の紙の束を見つめて。
ヴァレリー ユーリ・ハビット。あなたの貧弱なストマックがまだ、胃もたれに耐えられるのなら…。話してあげる。あの日・あの場所で。一体何が起こったか。
と、背後でユージンと藍の時間が解凍される。
ユージン (藍に)…シャット・ダウンだ。
藍 えっ?イヤイヤ、今、最高にイーとこじゃないスか?
ユージン いーから切るんだ。見たくないんだ。
チトー そーはいかんよ。
ユージン え?
チトー 見なくちゃいけない、その視線で。キミの言葉を持ち出した、娘の行く末を。
ユージン …!
藍 それでは物語のラスト・シーンをロードしますン。…ドロドロドロドロ。