量子探偵 ミンコフスキー密室/レムニスケート消失

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▼「量子探偵 ミンコフスキー密室/レムニスケート消失」

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架空畳 第20回公演 量子探偵 ミンコフスキー密室/レムニスケート消失
インタビュー vol.3 小野寺邦彦(後編)

聞き手・記事 日野あかり(日本のラジオ)

「見立て」で表現する演劇

――量子力学のような理数的なテーマは、演劇ではあまり扱われない印象があります。それをあえて演劇で描こうと思ったのはなぜですか?

ミスマッチかな、と思って。昔から演劇が好きでたくさん観てきましたが、当然ながら演劇って、基本的には家族とか恋愛とか、社会的な葛藤とか文学的・情動的なテーマを描くのに向いたジャンルですよね。でも、だからこそ、逆に“向いてなさそうなテーマ”を演劇でやってみたくなったんです。量子力学とか、微分係数とか、普通だったら舞台で扱わないような題材。それをあえてやってみると、演劇の持つ“チープさ”や“見立て”の力が逆に生きてくるんじゃないかと考えたんです。
演劇って、どんなに壮大なことを描こうとしても、結局は人間が目の前でやるから、ある意味では“全部チープ”なんですよ。表現媒体としてローカルでチープなのは当たり前だし、どんな内容でも同じこと。映像にしちゃうとしょぼく見えるけど直接舞台を観てる時はスペクタクルを感じるし、自分の脳内でぐっと迫ってくるものがあったりするじゃないですか。そこが演劇のいいところで、他に代えられない魅力があると思っていて。「そうじゃないもの」が「そう」見えてるっていう状態、ある種の催眠状態を作ってるわけで、すごいところだなと思うわけです。
だから何も表現できないからこそ、何を表現してもいいんじゃないかなと思って。たとえば「これが一次元の世界です」と言って俳優たちが横一列に並ぶ。それだけで一次元が成立する。観客も「なるほど、これは一次元なんだな」と思ってくれる。本来、演劇的なテーマとしてはなかなか機能しづらそうに見えるものっていうのをあえて選んだ方が、演劇の演劇性というものを、実はより有効に使えるんじゃないかなと思ったんですよね。つまり、チープであるからこそ、何でも表現できる。

――稽古場でも「イメージはこうです」と伝えて、どういう動きや表現なら「見立て」られるかをみんなで考えていますよね。



一般的にリアルだと言われるような舞台セットでも、観客から家の中身が丸見えなわけで実際にはそんな家はないですよね。これがそういうものだという約束事のもと、見立てている。私は「見立て」は非常に優れた演劇の表現手段だと思っていて、あらゆる表現手段の中で見立てが一番好きです。
昔のゲームで、数軒の家や小さなとんがった建物で、実際には存在する町や城を「見立て」で表現していて、それが好きだったんですね。今のゲームももちろん3Dやグラフィックがすごいとは思うけれどあまり面白みを感じない。表現手段そのものに興味があったんです。技術的な制限があって何でも自由に表現することができないと、何を選んで何を表現するかの取捨選択によって、非常にシンプルに、洗練されていって、ある種シュールになっていくんですよね。それをみんなが暗黙のうちに了解している。
そう思えば、リアルな家のセットを目の前に置くのも、俳優がこれが一次元ですっていう表現してるのも、同じことだと思うんです。ある意味で、何も表現できないからこそ、演劇で表現できないものはない。それなら、表現できなさそうに思えるものを選んだ方が得かなと思ってます。
だからシチュエーションを説明するときに、俳優の身振りの補助になるように台詞を書いている意識で常にやっています。一見、台詞で説明しているように見えるんですが、実は台詞だけでは全く意味が分からない、というところがたくさんあるんですよ。そうやって身振りで見立てて、台詞で補助をする、というやり方をやってみた結果、あんまり表現できないものってないなと思います。しつこいですけど、何も表現できないから、その演劇のチープさに救われる部分が出るんですよね。

「Φ(ファイ)をこころに、一、二と数えよ」

――前回の公演(「Φ(ファイ)をこころに、一、二と数えよ」)から「物語」の存在感を調整していると伺いました。そもそも、小野寺さんにとって「物語」とはどんなものですか?

物語って、結局どれも似ていて、そこが魅力的だと思っています。小さい頃から映画や小説をたくさん見てきて、途中で「ああ、これは類型なんだな」と気づいた。父と子の話だったり、選ばなかった人生の話だったり、抽象化すればどんな話も同じ構造に行き着く。でも、それは決して悪いことじゃなくて、むしろ似ているからこそ多くの人に通じるし、感情移入できる。その型の中で何を選び、何を捨てたのか、そこに物語を紡ぐ意味があると思っています。
ただ、物語があまりにも強く伝わりすぎてしまうことに、怖さも感じるんです。たとえば昔の映画『国民の創生』みたいに、伝える技術があまりにも優れていると、思想まで貫通してしまう。優れた物語は、人の心を動かすし、無意識のうちに何かを刷り込んでしまう。それって、ある意味プロパガンダにもなり得る。だから、私は物語を使うとき、どこかでそれを突き放して見ているところがあるんです。

――それを踏まえて、作品における「物語」の存在感をどのように考えてますか?

物語、いわゆる話のスジは、今は分かりやすくていい、と思ってるんです。むしろ、あえてペラペラにしてしまおうとさえ思っている。物語って結局は類型・パターンだから、その類型をどれだけ詰め込むか、そのバリエーションをどう使うかっていう話になる。
例えば今回の『密室』は、70年代のハードボイルド探偵ものっぽいテイストにしようと思っていて、いわゆる私立探偵が出てくるような“お約束”をわざと全部入れてみたんです。そうすると、逆に「これは偽物の寄せ集めです」って構造そのものが浮かび上がってくる。お話を詰め込めば詰め込むほど、逆に軽くなっていく感じがあるんですよ。
『消失』のほうは、ちょっとSF寄りというか、80年代のサイバーパンク的な雰囲気にしています。探偵ものもSFも、事件が起こるのが前提になってる。なんで事件が起こるのか? 探偵だから。理由はいらないんですよね。そういう、あらかじめ「分かってしまう」構造が物語の強さでもある。
以前はそういう「お話っぽさ」を恐れていて、抽象的に処理することも多かったんです。でも今はむしろ、類型的なお話を積極的に使って、物語という装置の強さを逆手にとっている感覚です。
私は、演劇はやっぱり俳優のものだと思っていて、登場人物がセリフを発する、その動機としての物語で十分なんです。物語が面白いことが目的じゃなくて、物語が面白いことで俳優がより魅力的に見える、そこが重要なんですよね。だから、物語は目的ではなく動機。セリフを言うための、次のシーンに進むための、俳優が動く理由。その動機が魅力的であればより楽しいよね、と考えています。
ただ一人で執筆していて気づくと「面白いお話を作ろう」となってしまって、「いや違う違う」と引き返すことがよくあります。やっぱりお話が面白くても、俳優が前に進む動機として機能していなければ意味がない。そういう時は、引き返して書いたものを眺めてます。

AIが考える「ミンコフスキー密室/レムニスケート消失」

――20回目の公演という節目ですが、旗揚げからここまでの変化について感じることはありますか?

最初の頃は「物語って語らない方が格好いいんじゃないか」と思っていました。語らずとも見てる人に伝わる、語ってないのに伝わるっていうことの方が高尚だと思っていたんですよね。筋をあまり意識せず、シーンごとの印象や断片を連ねて、最後まで繋がらないまま終わる。でも結局ラストでお話として繋げたくなってしまうという性が出てしまうのが芸術として破綻しているところで、少しジレンマでしたね。
2011年に『薔薇とダイヤモンド』を書いたことで、「もう一人の・そうじゃない方の自分」という具体的な主題がくっきりしてきて、それを描くための二次的な装置であれば、類型的なお話っていうのは使えるなと思ったので、筋というものを意識して付けるようになってます。
でもそれは、分かりやすくするためというよりも、観客が余計なカロリーを使わずに物語に入ってこられるようにするためなんです。「どういう構造なんだろう?」と考えさせるより、「この物語に乗っかってみよう」と思ってもらえる方が、作品や俳優に集中してもらえる。物語は目的ではなく、手段ですね。