稽古MEMO

稽古メモ

『柔らかい非流線形のフーガ メメント/アライメント』


update 2024.1.24


MEMO♯115【メメント/アライメント08】
2024年01月24日

●小屋入りしました。とは言っても、全日まで同じ劇場の地下稽古場で稽古してたんですけどね。でも、楽屋に入ればやっぱり小屋入りです。広い楽屋で、俳優の皆ご機嫌でした。私は隅っこで映像の編集作業してました。暇なわけじゃないけど、特にすることもない、この緊張と弛緩が入り混じった独特の空気を吸うと、小屋入りしたんだなーと思いますね。

●で、一日で場当たり→ゲネプロ(リハーサル)をこなしました。河西さんが空前の可愛らしいミスをしましたけど。事故ではなかったので御の字です。ミスはしても危なげない座組で、今回は本当に楽してます。ゲネプロを見ているといつも思います。おれ、いらないなーって。本当は初めからいらなかった気もするのです。台詞も物語も、俳優が舞台に立つ、その動機として必要なだけで、お膳立てが揃えば舞台は俳優のものですから。自分だけ遠いところに置いていかれた気持ちにいつも、なる。この気持ちに例外はないです。衣装をつけて照明を浴びて音効をバックに台詞を喋る俳優の素晴らしさ。芝居でそれ以上のものはないです。

●いいゲネでした。何度も書きますけど、俳優いいです。おれの書いた無茶も嘘も、俳優のフィジカル力によって腑に落とされることでしょう。しかしね。 俳優が良すぎると困ったことが起こります。俳優を手放したくなくなるのですね。でもダメ。稽古をして、本番を迎えて、千秋楽を終えれば、俳優は次の日から全く別の稽古場で全く別の世界の住人として稽古を始めるわけです。サッと次の日から別の人、ってのがいいんですよね。なまじホンを書いたりしてる人間は、自作に固執したりするからイヤですね。思い入れは創作の足枷になる。私は足枷も愛せますけどね。俳優は、身軽なほうがいい。何年か経って、え?そんな芝居やったっけ?ていうのが、いいですね。だから私も、新しい俳優を常に探しています。思い入れに絡み取られる前に、次の表現を探します。で、また思い入れちゃうんですけど。これってイタチごっこですかね?

●と、まるで芝居が終ったかのような書きぶりですが、まだ初日もあけておりません。本日24日、「カンテン」は開幕ですが、架空畳は明日25日14時より初日となります。ド平日の真昼間、ということで、なかなか難しい時間帯かとは思いますが、ぜひ座・高円寺へお越し下さいませね。全3ステージ、最高の60分をお見せします。ホントですよ。では、また。
(主筆)


MEMO♯114【メメント/アライメント07】
2024年1月23日

●昨日は稽古最終日でした。劇場の稽古場に集合して、軽く返してから通し稽古で締めました。1ヶ月とちょっと、全部で22回の稽古でしたが、濃かった。毎度思いますが、一か月前には影もカタチも無かった芝居が出来上がっている姿を見るのは本当に不思議です。

●最終盤の稽古では、本田さんと木村くんのシーンにテコ入れしました。本田さんには、毎度難しい役をお願いしています。それは表面上、あからさまに難しい、という形で現れる類のものではなく、むしろ微妙で繊細な部分です。繊細なんですが、強い。ある突き放した冷たさを、冷たさのみではなく表現して貰ってます。うわついた戯言だらけの私の芝居の中で、地に足をつけた倫理のパートを担って貰うことが多いのですが、おかげで芝居が締まるんですね。人物と人物の対立するその「間」に立つことで、舞台全体を相対化する、重要・だけどあからさまではない、そのバランスを奇跡的にとって貰ってます。その役割ゆえに、芝居のチューニングが稽古期間の終盤になってしまうのですが、辛抱強く稽古につきあってくれてありがたい限りです。

●木村くんは、演出肌であり周りが見えてますので、基本、やりたいようにやって貰って、ちょいちょい微調整をするという感じです。どんどん調子に乗るのも楽しいんですよね。見ていて楽しい俳優は貴重な存在です。木村くんのような俳優を見ていると、演出ってあんまりやることないな、と思います。演技の方向性を示すのに、点を示すか、線を示すか、しばし考えることがあるのですが、木村君は断然、点ですね。出発点と、演技の向かう方向だけを最小限に示して、あとは野に放つ。すると点が次の点に達するまでの時間をちゃんと、彼固有の時間として過ごしてくれます。自由だけど外さない、その捌き方は見事なものです。たまに着地失敗しますけど、それもまた愛嬌ということで。失敗がイヤなら芝居なんてしなくていいので、綱渡りの真骨頂を見せてくれてニコニコですね。

●通し稽古を見て、最後に日野さんにつけた些細な演出がピタっとハマって、あ、これで出来たなと感じました。 ここまでくると、もう私が何かやることってありません。ぼんやり芝居を眺めるだけです。そんなわけで充実して楽しい稽古でした。今日はこれから小屋入りして、場当たり・ゲネをこなしたら、「カンテン」明日開幕です。架空畳は明後日25日初日。まだまだ売るほどあるチケットをどうぞよろしく。では、また。
(主筆))


MEMO♯113【メメント/アライメント06】
2024年01月19日

●稽古しております。2回の通し稽古を経て、小指の爪の先にまで神経を通す作業を。爪に神経はないですが。ないところまで通す。

●荒波さんのシーンに手をつけ始めました。荒波さんは、いわゆる演技の「フラ」、俳優独特の生理で予期せぬ演技に触れる部分が面白い俳優です。すごく真面目です。誰よりも真面目に演技に取り組んで、誰にも(本人にすら)分からないところに行きます。ある意味で、演出し放題ですね。だって絶対に決めた通りにならないですから。方向性、プランさえ決めれば、あとは本番でそれがどうでるか?は出たトコ勝負でもあります。その勝負に勝ってきたのだから、スゴい。架空畳での出演は2回目ですが、昨年『江花実里企画』でもご一緒してますので、作品を共にするのは3回目です。3回目で始めて、芝居の核となる、重要でメロウなシーンを書きました。ラストシーンへ向かう仕掛けの初手、戯曲の屋台骨です。その骨を、座組で最もフラのある俳優に任せる。芝居冥利に尽きますわね。きっと今までで、一番いい演技をするでしょう。入れてすぐ出すタイプではありません。詰め込んで、ゆっくりと染み出していく人です。シミシミでひたひたの荒波さんを是非観に来て下さいね。感動しますよ。

●昨日の稽古では、さらにラストシーン間際の内柴さんの場面にも手を入れました。ホンの少しの手直しで、完璧なシーンになりました。内柴さんは演技がすごくしっかりしています。地に足がついている。その足の付き具合に、少し本人の意識がついていっていないと感じる瞬間すら、あります。既に出来てしまっている自分を信じていない時間がある、といいますか。多分、本人は一生懸命やってるだけなんだと思いますが、そんなに一生懸命にならなくても、出来てる。でもきっとそうは思ってないんです。その身体と意識の細やかなズレが面白いし、魅力でもあるのですが。それがピタリと一致した瞬間をやっぱり観たくて、シーンに手を入れました。自信満々の姿を見たくなったんですよね。私はロジックを大事にしていますが、であればこそ、ロジック以外の要素で劇中人物を救ってほしい場面が必ず現れる。それを今回は内柴さんに担ってもらいました。バッチリ上手くいって幸福です。

●少し駆け足ではありますが、出演者それぞれの「役」に関しての説明もしています。話すのは、台詞で表現された人物の、「そうではない」部分が主です。この人物はなぜ、こういう事をいうのか?ではなく、なぜこういう風には言わないのか?というような。私の台詞は、めちゃくちゃイロイロ、饒舌に話ているように見えるんですが、実際には、それによって「話していないこと」を表現しています。こんなに饒舌に語る人物が「そのこと」だけは話さない。実はそれがやりたいことです。背景や設定は重要なのではなく、俳優に演じて欲しいのはせの切実さ、です。皆、考えています。私も考えますが、俳優の「考え」に比べればぜんぜん、大したことないですね。

●そんなわけで初日まで一週間を切りました。ウェブサイトでは俳優/役柄ごとのそれぞれの一人称で語られる10個の「ものがたり」の公開も始まっています。今まだ数名しかアップされていませんが、この週末には全員分、出そろいます。カンテン、盛り上げていきたいすね。ごはんも食べてね。では、また。
(主筆)


MEMO♯112【メメント/アライメント05】
2024年01月17日

●日々、稽古しております。稽古しかしてない日々ともいえます。台本を書き上げてしまったので、あとは俳優にお任せで楽しようと思ってたのですが。ぜんぜん、楽してないですね。不思議です。俳優がいいので、稽古を見ているとどんどん、欲が出てしまうのです。楽しい&しんどい日々。しんどさも、楽しさに含まれておりますけどね。

●昨日は、劇場地下の稽古場で2回目の通し稽古。前回よりタイムは伸びてしまいましたが、これはまあ想定内。皆、まだ身体に入り切っていない台詞とキッカケをふわふわと身に帯びたまま、おっかなびっくりでやっております。演技が未だ「表出」に留まっていて「表現」に達していないってことです。表に出すのが大事です。がんがん、出していきます。俳優においては、とにかく自分の時間を多く使わないように、主観的な時間を可能な限り濃縮していく方法を一緒に考えていきます。

●私の演出では、作品世界に流れる実際の時間と、人物の内面の時間を一致させています。例えばある人物にとっては1時間にも感じる1秒、というものが表現上考えられるわけですが、そこで本当に台詞を喋るのに1時間使ってしまってはダメということです。絶対に1秒で喋る。当たり前のようですが、実は結構、特殊な演出です。芝居は時間の芸術ですから、演出家や俳優は、一作品の中で、さまざまに異なる時間の流れを、延ばしたり縮めたりと巧みに操作して表現することが一般的なのです。でも私にはその、時間の意図的な操作というものがピンとこないんですね。個人が内面の中でどう感じようと、現実に流れる時間は一律です。一律であればこそ、主観的な時間を「感じる」という表現に達する。「表現」に必要だから必要なだけ、時間を使ってしまう、或いはいらない時間は短縮してしまうというのは、極めて横暴、とまで言わずとも、勝手だな、と思ってしまうのです。というわけで、ちゃっちゃか、喋って貰います。結果、嵐のように台詞と情報量が舞台上に渦巻くわけですが、私にとっては、人間の思考ってそういうものです。リアリティがある。架空畳の芝居を見て、誰も「リアリティがある」なんて思わないでしょうけど。非リアル人間が書いて演出しているわけで仕方ナシと言えましょう。

●10人も俳優がいれば、当然10通りの「やり方」があるワケです。それを見極め、尊重したい。と思っても、なんだかんだ、押しつけてしまうことは多いですが。

●通し稽古をしていると、芝居が出来上がるまでの「組み立て」に非常なエネルギーを使うタイプの人と、とりあえず組みあがった作品に乗ってから本領を発揮するタイプがいるな、と感じます。どっちも面白い。作品の組み上げに労を裂くタイプは構造型、それに乗っかって表現を磨いていくのは物語型とでも言いましょうか。勿論、その両輪にいる人もいます。河西さんは、組みあがった物語の上を疑念と好奇心でもって進む俳優です。物語という世界の謎を識り、疑っていく。その態度自体が演技体になっている。だから今回、河西さんには、何も知らず世界の謎に足を踏み入れていく役を書きました。これも、前回メモに書いたように、河西さんだからこそ書けた役です。河西さん以外の役には全て背景があり、行動への動機がある。河西さんにだけ、それはないのです。物語の冒頭で、この世界に足を踏み入れる動機を一応、設定しました。ですがその動機そのものが、果たして本当に彼女のものなのか、極めて希薄であるよう気を付けて書きました。結果、いま、まだ、河西さんは物語の世界で明確に歩けているわけではない。それ自体が表現となって昇華される時間を楽しみたいと思います。

●昨日は架空畳メンバーの江花実里さんも稽古を見に来て下さいました。実里さんは舞台上にはいませんが、いつでもその魂は架空畳の上演時に漂っています。オカルトですね。実里さんに見せて恥ずかしくない舞台を作りたいと、つまりいつも思っているのです。実里さんこそが架空畳であり、そして私の作品に最も厳しい批評家ですから。あと制作の永井に、いつもであれば通しを見て貰って「面白かったよ」と言って貰えることが作品の品質保証になっているのですが…。今回は戯曲も読まず、一観客として本番を見に来るとのこと。それもまた、小さな挑戦であり、楽しい遊びであることでしょう。

●なんだか、楽しんでばかりですね。楽しいからね。しょうがないね。なんだかんだ初日まで、あと一週間ちょっとです。観に来て下さいね。ホントに、いい作品です。では、また。
(主筆)


MEMO♯111【メメント/アライメント04】
2024年01月15日

●昨日14日は、通し稽古でした。座・高円寺の稽古場でスタッフに見て貰う見せ稽古ってやつです。初通しだったんですけど。数々の謎時間はあれど、一応、通りました。上演時間も既定の60分に収まりそうで、あとはシーンを返して微調整を繰り返していく作業です。ちくちくちくちく、やっていきます。芝居の稽古ってとっても地味よね。それが好きです。人間が地味なので。

●通しの際、衣装もつけました。毎度素晴らし過ぎる小川さんの衣装。運営側のスタッフにも大評判でした。その賞賛はおれが受けちゃいけないんですけど。つい、いばったりして。ダメね。人のふんどしで嬉しい気分になってしまった。小川さん、ごめん。でも芝居やってる限り、私は人のふんどし稼業。だって芝居の本体は誰が何と言おうと絶対に俳優ですから。俳優を見たい・見せたいが為に、本を書いて、演出(と一般に呼ばれる行為)をしてます。俳優は凄い。俳優は素晴らしい。稽古場で俳優の演技を見ているだけで幸福です。

●私は稽古場でしか本を書けない人間です。書斎で書ける人間だったらカッコよかったんですけど、そうなりませんでした。今稽古場にいる、この人だから、こういう台詞になるし、こういう話になる。架空畳の芝居が殆ど再演されないのは、そのせいです。かつて誰かの為に書いた台詞を別の俳優に移す、ということに意義を感じない。戯曲のドラマツルギーが希薄なのです。俳優の演技に託した芯が抜ければ、私の本なんて抜け殻です。それがバレるから再演できません。というわけで今回の芝居も、全て稽古場にいる俳優に向けてだけ、書きました。俳優は、その自分にのみ向けて書かれた重すぎメンヘラ芝居を、観客にトランスレートするために、日々おれのメンヘラ構文を翻訳しているというわけですね。お気の毒と思いますか?どうだろう。俳優間で謎の結束は高まっているようではあります。先日稽古中に、フと「台詞足そうか?」って言った瞬間、秒速0.1秒で全員から大ブーイングを貰いました。これ以上増やしてどーすんだ!、という。その瞬間の俳優の結束力よ。私は怒られてシュンとしましたよ。

●相変わらず、明里さんは稽古場を仕切ってくれてます。芝居の着地も早い。飲み込んで、取り合えず出す。その瞬発力に本当に感心するし、助かってます。試行錯誤を苦にしない、というか、試行錯誤を経ることを、クリエイションの重要な過程として取り込んでいる。戯曲を読み理解する素養もあるので、それをいち早く稽古場に伝えてもくれます。ロジックではなく、演技そのもので。「とってだし」の試行錯誤演技は消耗も多く過酷な作り方ですが、妙な根性でとにかく手数を出してくれます。手数の多い俳優は演出家にとっては天使です。かつて稽古中に私をトイレに閉じ込めたこともある天使ですが。演技体が基本、陽性なのもいいです。本人はもっとサイコパスみたいな役もやりたいらしいんですけど。そうか、そういうのも書こうかね?と思う瞬間もあるのですが、稽古場で明里さんを見てしまうと、ぜんぜん、そんな台詞にならないんですよね。謎です。謎だね?

●昨日の通しで記憶に留めておきたいのは、日野さんがいい崩れ方をしたってことです。実寸の舞台で、背景の広大な空間を借景に、日野さんが立ち、崩れた瞬間、あっ、芝居になった、と思いました。それはただ日野さんだけの手柄って意味でもなく。全員で、日野さんの「いい崩れ」に芝居を持っていけてるってことです。俳優の身体は本当に素晴らしく感動的です。芝居の脚本や演出なんて、そこに俳優を立たせる口実に過ぎない、と言い過ぎですが言い過ぎではないと思う、その瞬間の為にやってます。楽しい遊びです。10人の俳優全員に、「そこに立って欲しい」魅力的な口実をウンウン捻って書いた作品です。是非、俳優を観に来て下さいね。では、また、
(主筆)


MEMO♯110【メメント/アライメント03】
2024年01月14日

●3日前の1月11日、台本が完本しました。初日の15日前。上演時間60分の作品なので、いつもの半分+ちょっと、くらいの分量なのですが。稽古初日が昨年12月12日でしたので、かっちり一ヶ月かけてしまいました。年末から年明けにかけての稽古お休み期間中に一度、終わりまで書いたものの、とても収まらず。そこから解体し、要素を再構成して…その作業に一週間。引っ張ってしまいました。

●11日は、劇場である座・高円寺の地下稽古場での稽古だったのですが、冒頭1時間、俳優に稽古をお任せして、劇場向かいにあるローソンのフードコードでラストシーンを仕上げました。ドタバタにも程がありますが、今!仕上げないといけない!という瞬間だったのです。お陰様で思い描いていたラストシーンに辿りつきました。

●で、実際の稽古場のだいたい実寸で動いてみました。広い、広い、と言うけれど、実は「広さ」それ自体はあまり問題に感じていません。狭いほうが難しいです、舞台は。私の演出は、俳優の動きとミザンスを全て指定するもので、サディスティックな印象があるかもしれませんが、実際には立つ「場所」と「場所」を点で指定しているだけです。その「点」から「点」への移動する時間は、俳優固有の時間としてお渡ししています。狭い空間ですと、その移動する時間が物理的にない(距離が短い)ので、劇空間が濃密になってしまう。ルーズな時間とタイトな時間の引っ張り合いの中にそのへんの「濃さ」を中和させたいのです。つまり広い空間は俳優にお渡しする時間が長い。だから私は楽です。でも、そう、俳優が大変なんですね。ハハハ。

●ちょっと前の稽古で、大矢さんを中心にしたシーンをやりました。大矢さんは架空畳に3回目の出演です。いつも少しだけ、背伸びをしたような印象を与えられないかと思って演出しています。それは身の丈に余るということではなく、自分の今いる位置から常に別の場所を探している焦燥感のようなものです。焦燥を感じる必要はないのですが、感じているように表現できないか?ということを考えます。今回の芝居は、基本、舞台上に俳優がずっとうじゃうじゃいるんですが、その中で大矢さんが独りになるシーンを多く設定しています。群衆の中から、一瞬、独りになる。その瞬間に現れる表現が見たいのです。どうぞ、注目してくださいね。

●本日はこのあと朝10時からスタジオで稽古して、再び座高円寺です。何と、見せ稽古ってやつです。運営のスタッフに通しを見て貰うんですね。初通しなんですけど。バッタバッタでしょう。楽しくバタバタします。初日まで2週間を切りました。チケットのほう、是非宜しく。面白い芝居ですよ。では、また。
(主筆)


MEMO♯109【メメント/アライメント02】
2024年01月05日

●日々、稽古をしていたら年が明けてしまっておりました。2024年ですか。今年もそこそこ、よろしくお願い致しますね。

●稽古メモを始めたはいいが放置していたのには、理由がありまして。前回、数年ぶりに記事を更新したところ、それまで放置状態であったのに急に訪問者がやってきたものですから、facebookというのか、metaというのか、当局より通告があり。「お前はAIではないか?」と問責を受けてアカウントの更新をしばしフリーズされてしまったのでした。それにしてもです。
「お前はAIではないか?」
その問いにどう答えるべきなのでしょう。まるきりブレードランナーです。さすが21世紀。PKディックの世界に到達してしまったようです。そんなわけでスタート早々、つまづきましたが、まあいつも、こんなものです。

●稽古は年内に8回消化しまして。昨日4日より再会致しました。台本は、俳優に渡せている分は全体の3分の2。年末から年始にかけて、忘年会と正月に/それなりに/背を向けながら独り、戯曲を書き進めはしました。それで一応、初稿は完本したものの、今回の上演時間60分には到底収まりきらず。笑っちゃうほど収まらなかったです。ははは。切って貼って、2つのシーンを一つにしたり。散漫な台詞を濃縮したり。むしろ無駄な台詞をちょっと足したりと改稿しながら、上演台本の完成に向かっております。が、独りで書いていると頭しか使っていないので、どうにも理屈が強くなってしまい、それも枚数が増えてしまう大きな要因です。稽古をして、俳優に喋り・動いて貰えば、何行も費やした台詞が、一行で済む、その事に気付きます。過去何度も経験している過ちですが、どうにも改善されない点です。稽古のありがたさ。俳優の素晴らしさ。俳優がいなければ私は1行も書くことが出来ない、それじゃ困ると言われても、そうなのです。

●特に今回は、劇作の中で俳優に負って貰う割合を増やしています。具体的にいえば、物語の抽象化です。近頃の架空畳の作劇は、表層上の物語性を強く描いた、ややキャッチ―なものに依っています。「お話」の要素が強い。それはそれで楽しくやりがいのあるものなのですが、今回は「お話」のレイヤーをやや抽象化しています。そのあわいの部分を俳優の身体で補完したい。座・高円寺という舞台には、何かその方が似合うではないかという、漠然としたイメージからそうしている、というのが一つ。もう一つは、今回の座組ならそれが出来るだろうという希望です。

●ここしばらく、小島さんの動きを考えています。昨日の稽古でも考えました。まず具体的なアクション・行為を説明し、それを身体の動きに置き換え、「暗喩」として機能させる。小島さんは非常な身体性に富んだ俳優ですが、その操縦方法は、外から見ている限り案外、謎です。どこを押せば何が出てくるのか、なかなか正体を見せないところがある。あまりに器用過ぎるが故の、不器用さとでもいいますか。訓練された身体であるが故に、常套的な要求に答える動きが既に豊富に用意されている。バリエーションがストックされている、というのは素晴らしいことではありますが、要求に対する回答が早すぎる、とも言える。ゼータクな悩みってやつです。ストックにない、用意されたバリエーションとは異なる回路を通した時、はじめて身体が思考する時間が産まれる。その時間を得る為には、小島さんが「今までされたことのない質問」を問う必要があるというワケです。なんか、難しいことを言ってるようですが、要するにデタラメです。筋の通ったデタラメを探す必要がある。演出家としての質問力が問われているわけです。頑張りたい。皆で頑張っています。

●そんなわけで、公演は月末です。年があけたばかりでボンヤリしますが、6劇団競演の遊び・「カンテン」へ是非お越し下さいませね。では、また。
(主筆)


MEMO♯108【メメント/アライメント01】
2023年12月15日

●1年ぶりの稽古メモです。UIが無理過ぎてすっかりSNSの墓石と化したfacebookですが、今回はボチボチ書いていこうと思ってますのでよろしく。 年明け1月、座・高円寺で開催の6劇団競演プログラム「カンテン」に招かれまして、架空畳、新作公演を行います。他劇団さまとの2コイチで、60分の作品です。 その稽古を今週から始めてまして。昨日まで2回の稽古で、冒頭のオープニングを当たりました。

●今回、主催者サイドから申し渡された条件が、座・高円寺の広い舞台を「更地」として、つまり一切の装飾なく素舞台として使う事。 何もない舞台にあるものは、俳優だけ。 で、あればその俳優の居住まい、特にその「立ち方」の特徴のみで舞台を埋めようと考えました。 出演をお願いした10人の俳優、全員その「立ち方」に特徴があります。 そこにフォーカスし、それぞれの「立ち方」に沿った配役、構造、プロットを練りました。 役名から台詞の一つまで、各人の「立ち方」を私が恣意的に解釈し、その人専用で用意したものです。 それはすなわちデコボコで、非調和、ということですが 非調和の和、といったものが生まれ出るのではないか、それを期待し、試行錯誤していく稽古場になるはずです。

●俳優がそこにいること。或いは、いなくなること。 ただ立つこと。或いは立てなくなってしまうこと。 それは通常、あまりに「劇的」で、その「劇的」の過剰さ故に、むしろその要素を美術や小道具や照明や音楽などで「薄める」ことで作品としての調和を取るのですが 「舞台に何も置いてはいけない」というのなら、では一つ、過剰な「劇的」要素のみで構成しようと思った次第です。 で、つまり、それは俳優です。 そこに居て、そこに立つ俳優を見せる舞台。 そこから逆算して戯曲も書こうと思い立ち、書いて、稽古場に持っていったわけです。

●普段は、戯曲の冒頭には、比較的「優しい」シーンを書きます。 俳優そして観客にとっても、「優しい」シーンです。 それはこれから舞台が始まる、その車輪が転がり始めるキッカケとして冒頭シーンをセッティングするからです。 けれど今回は、おそらく一番「難しい」シーンから始めてみました。 そいつを稽古場にもっていき、さてどの程度実現(ビジュアライズ)可能か?と、その具合如何によって、この後の解像度に手心を加えようと思っていたのです。 でも、出来ちゃいました。 なんか、出来そうなんですよね。 俳優の力です。

●で、ネタバレしていきますが、この「難しい」冒頭を担ってもらう俳優が日野あかりさんです。 日野さんの芝居を観ていて、ものすごく「地面に立っている」俳優だな、という印象がいつもあったのです。 四角四面の水平と垂直。 喩え歪んでいたとして、「垂直に歪んでいる」。 それは舞台との接地面積が(演技的に)大きい、ということです。 粘着的、とも言えます。 舞台に「居る」、その居住まいの執着の粘度が濃い。 それがあまりに「劇的」過ぎて、過去出演して頂いた私の舞台では、その要素をある場面に集中させる為、他のシーンではわざと薄めるよう演出したほどです。 これは、ある意味でとても歪な(俳優としての)性格です。 ぐにゃぐにゃとゆがんで立つ俳優と、異様とも思えるほどまっすぐ立つ俳優。 そのどちらも歪で、どちらも魅力的です。 つまり、替えが効かない。 舞台の冒頭、誰もいない空間に、まず日野さんが「立ち」ます。 それはいびつでゆがんだ、あまりに「劇的」な「垂直」となって何もない舞台を支配する、はずです。 そして、そんな彼女を「崩す」ことから、まずこの芝居は始まる。 私は稽古場で演技指導はしません。 物理実験のように、異なる素材の俳優を配置し、そこで起こることを発見するのが、愉しみであり、仕事です。

●そんなわけで俳優に丸投げの、楽しい無責任稽古が始まりました。 私が無責任なのはいつものことですが、今回は無責任を構造化しているので、真のタワケ者です。 私が「演出家」ではなく「演出好(すき)」であることの真骨頂と申せましょう。 1月末、座・高円寺にぜひお越しください。 俳優だけがいる舞台です。 俳優を見て下さい。 俳優のために書く戯曲、物語、カタルシスを作りますので。 では、また。
(主筆)