Dance・Distance | NOTE | KAKU-JYO

Dance・Distance

Integral.s NOTE

#162 部屋にいた / 2020.07.03 FRI

■久しぶりにテレビの電源を入れると、放送が中断されているらしいドラマの予告が流れ、最後にでかでかとテロップが出た。

「絶賛撮影中」

絶え間ない賛辞に包まれる撮影現場。カット、オーケー、湧きおこる喝采。 スタンディングオベーション。まかり間違って放送などした日には、どうなってしまうのか。絶賛撮影中。テレビは侮れない。

■部屋にいる。

■日中、部屋にいるのが苦手だ。ソワソワするのだ。 寝床から起き上がると1秒でも早く部屋を脱出し、 街を徘徊し、本屋をハシゴしてから喫茶店に漂着。そうしてやっと人心地が着く。 部屋に戻るのはとっぷりと陽が暮れてからだ。夜は好きだ。夜はいい。 夜、部屋で本を読んだり映画を観たりぼーっとしたり。そして眠り、起きるとサッサと部屋を脱出する。 日中、落ち着くのは湯船の中だけだ。だが、状況が許さなくなった。寝るだけだった部屋に、生活をインストールしないといけない。 それで、庭の草をむしって花を植えた。作物を植えて農園化した。ジャムを作り漬物を漬け、めだかの学校も開校した。 逃避であり、助走だ。助走と助走の合間の息切れの瞬間、いいわけのように仕事をする。文章を書く。そうやって暮らしてきた。もう取り返しはつかない。

■いつか、こんな日が来るとは思っていた。当たり前のように会う人と、当たり前には会えなくなること。 だからこの15年、人と会い、喋ることに最も多くの時間を使った。私は本当によく喋った。話をした。遊んでばかりいて良かったと、心の底から思う。

■10月、公演をする。世間はイロイロだ。様々な試み、実験、志を持った活動が模索されている。声高に語る人がいる。囁くような提言もある。 世論は回り、正しさは更新される。 私はもともと、世間からズレている。 ずっとズレているのだ。 私は私のやりたいことだけをやり、それをお金を取って人に見せる。 いま、作りたい芝居があり、書きたい戯曲があり、見たい俳優がいる。 決めていることは、正しいからするのではなく、間違っていたとしてもやりたい事だけをやること。それは本当だ。

■そんなわけでオーディションをした。開催が確約されていない状況で、多くの方にご応募頂いた。 ありがたい。ありがたすぎ。ビデオチャットツールを使って、書き下ろした戯曲を読んで貰った。 二人芝居、ワンシチュエーションの会話劇。終わりだけ決めて出たとこ勝負で書いた。ドトールで4時間、7分くらいの戯曲が出来た。 なるべく思い入れなく、サラリとスケッチのように書こうと思ったのだが、ぜんぜんそうはならなかった。 思い入れてしまった。 せめて演出だ。 思い入れて書いた戯曲を、いかに思い入れずに演出するか。そこが課題。難しいけど。 そんな困難も困難のまま受け入れつつ、出演者も決まった。公演の情報も、しばらくしたら出る。お待ちください。

■4月の終わり。緊急事態宣言という名の戒厳令下、必要があって街へ出た。駅前で用事を済ませて、少し周囲を歩いた。 馴染みの喫茶店、書店は全て閉まり、駅中チェーン店の、隣り合った本屋とカフェが一件ずつ空いているキリだった。 本屋で新刊本を買い、カフェに入った。席数を半分以下に減らした店内はマスクをした人々で混雑していた。そこでコーヒーを飲みながら本を読んで帰りたかったが、 さすがに持ち帰った。ブレンドを注文すると、「研修中」のプレートを付けた若い女性店員が、先輩に教えて貰いながら、ゆっくりと淹れてくれた。 戒厳令が敷かれる非日常にも、新たにアルバイトを始める人がいる。そこには様々な、或いは取るに足らない、理由がある。あのヒトが店に慣れ、「研修中」のプレートが取れた頃、どんな世の中になっているのだろうと考えつつ歩いた。今、その未来に暮らしている。2020年は半分が過ぎた。

小野寺邦彦


#163 異世界から / 2020.08.17 MON

■異世界で転生したらチート能力を持っていて無双 しているのが、今の自分だと想像してみる。 現在の日々の生活が もともと俺がいた世界と比べれば チート級の幸福なのだ。 俺は今、無双している。なにせ食うに困らず住む部屋がある。頼まれてもいないのに創作までしている。

■新宿三丁目の劇場・雑遊で、川村毅新作「路上5 東京自粛」を観た。 装飾のない、真っ黒でガランとしたハコ。10名だけの客席、その最前列にマスクをしたまま座った。

■部屋で一人眠る男、小林勝也演じる村上が目を覚まし、台詞を言う。 「夢を観た。世界中に伝染病が蔓延してるんだ」。 伝染病による災禍で日々、死者が積み重ねられゆく世界。人々は自粛を余儀なくされ、資本主義は停止する‐それはかつて物語で語られた世界だったはずだが、 現在、虚構と現実は正しく反転した。 昨日までの物語こそ今日の現実であり、昨日までの現実は、既に遠い夢の世界だ。 村上は無人の歌舞伎町を彷徨う。それをフィクショナルな自分の夢だと信じて楽しむ村上だが、 劇中、何度も何度もアタマをぶっ叩かれて昏睡し、目覚めるがまだ「夢」は続いていて、村上が還ろうとする現実には戻れない。 それはもう存在しないからだ。

■私は、80年代の初頭に生まれた。中学入学は95年。高校入学は98年。思春期はまるまる20世紀末と共にあった。 その頃読んだマンガ、小説、或いは映画、芝居などのフィクション、或いは背伸びをして読んだ、話題の社会学者などの著書には、破滅や滅亡を幻視し・望むストーリー や言説が溢れていた。 未来は来ず、世界は破滅せず、「いま」が永久に続いていく。 そんな世界ならばいっそ爆弾一発で蒸発してしまえばいい‐そんな物語がラッピングされて並んでいた。 それは勿論「終わりなき日常」に担保されたうえでの啖呵だったのだと今では分かる。 だが10代だった私にとって、破滅が起こりえない世界で破滅を望むことはカッコ良かった。

■21世紀がやってきて、株とかITとか、ますます自分と世間が遠く離れてゆく感覚の中で暮らす日々。2011年3月11日がやってきた。 NHKの生中継。 メルトダウンした福島第一原発の水蒸気爆発を観た瞬間。不謹慎であることは重々承知の上で 「ついに来るべきときがきた!」 と愚かにも高揚したことは事実だ。 望んでいた破滅がついに訪れた。あのマンガ家や、小説家や、戯曲家や、思想家たちは、何というのだろう。 ついに日常は終わった!辿り着けないはずだった世界に辿り着いた!と快哉を叫ぶのだろうか。

■そんなことをいう者はいなかった。どころか、無くなってしまった「日常」を悼むような「優しいストーリー」に、こぞって転向してしまった。 スイッチひとつで世界がポン♪と愉快に破滅を描いたマンガ家が、「あの優しかった日常へ還ろう」などという作品を新聞上に寄稿したとき、 世界が反転するような眩暈と吐き気を覚えた。 それはないんじゃないだろうか。 言うまでもなくその転向は正しい。絶対に正しい。 破滅を望み描くのは、あくまで日常が担保されていたからであって、その前提が崩れた以上趣旨替えは必然だ。 だが彼らが目ざとく新しい世界の倫理に順応するほどには、その信奉者たちは身軽には転身できない。 あの頃・さんざん破滅への筋書きを見せびらかしてウットリとさせたリーダーたちが、その先頭から次々に「優しい思想」に趣旨替えをしてしまう。 その転身の素早さはあきれるほど見事なものに映った。

■私は思った。作者自身によって掌を返されてしまった、彼らの作った物語の世界と登場人物たちはどうなってしまうのだろう。 美しく賛美された滅亡の世界に、顧みられることもなく忘れ去られたまま。 そのことばかりを考え続けた。

■平和な時代だったのだろう。親のすねをかじりながら不良やってる学生のように、日常に甘えた破滅願望。 でも、だからと言って、その願望そのものを無かったことにはできない。 例え世界のカタチが変わってしまったからといって自分が熱狂したあの物語とあの登場人物たちを、「今思えば愚かであった」などと言って見捨て、 自分だけが「新しい世界」にサッパリと順応する事は許されない。 仮に時代に沿った誤った思想であったとしても、それに対する反省と検証が行われなくてはならない。 それは未熟であった自分へのケジメであり供養だ。けれどそのような作業の痕跡を見いだせないまま、時間は過ぎた。

■「路上5」の終盤。ロックダウンが明け、夢から醒め、何事もなかったかのように雑踏が戻った歌舞伎町。だが、いくら見かけは元通りに見えても、そこはもうかつての街ではない。「まだ夢から醒めていない」ことに気付いた村上は、街に対峙し、「人類が滅んでも世界は滅びない。人間がいなくなるだけだ。おれは、あの夢の中の人々を見捨てない」と啖呵を切る。並行する虚構の世界に今は閉じ込められてしまった昨日までの世界。そこに今もパラレルに生きている「もう一つの私たち」への供養と鎮魂。 例え今、「新しい世界」に順応した自分たちがたまたま災禍以降の世界に生き延びたのだとしても、かつてあったあの世界をまるで無かったかのようにサッサと忘れてこの世界を謳歌することなど出来ない。はっきりと、その言葉を聞いた。嬉しかった。

■エンターティンメントは解体された。これまでと同じ形で娯楽が供されることはもうないのかもしれない。それは辛く忌むべきことだ。 日常回帰を望む想いの強さは、他の多くの人々と同じく私も全く同様だ。 だが正直に告白すれば、自粛期間中、私は楽しかった。資本主義が止まって、世界がリセットされて、勿論不安ではあったけれど、同時にその境遇に不謹慎なワクワクを感じた。 本当のことだ。そんな思ってはいけないことを、思うワケがない!などと嘘はつけない。世界と自分は関係がない。けれど、間違った世界を勝手に愛し、そして今も愛している自分を決して否定してはならない。 或いは、きちんと否定しなくてはならない。あったことを、まるで初めから無かったかのように振る舞ってはならない。 かつてフィクションがそれを教えてくれた。私は作者より作品を信じる。

■私が物語を描くのは、そうすることで、物語を描いていない私を想像するためだ。私が戯曲を書くとき、戯曲を書いている私と、書かなかった私とに世界は分割される。むこうの世界では、私は戯曲を書く代わりに何をしているのだろう。或いは、もう一つのその世界で私がしていることを、しなかった私が今、こちらで芝居なんかをやっているのかもしれない。それは稽古場で俳優を観ているときも、いつもボンヤリ感じていることだ。今、たまたま、何かのキッカケでここに集まっている人たちが、しかしここに集まっていることには何の必然もない。ただ作品を作ろう、と私が思った事だけが要因であることは間違いなく、だから私は、芝居の集団は、作品だけで成立していたいと思う。別に仲良しでなくていいし、忠誠を誓い合う必要なんてサラサラない。ただ作品を作ること、それだけを目的に集まる人々。そこにしか、今、ここ、という場所に自分がいる、その必然はない。

■想像力、という言葉は難しい。ただ、もう一つの現実を、夢想ではなく事実として信じる力を、今はそう呼びたい。殺人事件が起こるとき、そこに特別な理由・要因を探し、「自分とは違う異常な人」が起こした事件なのだと納得したがる人々には、自分が人殺しをするかもしれない、という「起こり得る現実」を信じる能力に欠けている。自分が人を殺した世界、それはもしも、ではない。ただ偶然の選択肢の中で、いま、たまたま自分が人を殺していない世界にいるに過ぎない。それは例え話ではない。 「恋愛をしたことがない人は、恋愛の芝居ができない」 「それでは、人を殺したことのない人は、人殺しの役は出来ないのですか?」 この問答はすべて間違っている。人を殺したことがなくても、自分が人を殺すかもしれない、その世界を想像し、接近し、その世界の息遣いをこちらに持ち返ってくること。それが俳優の仕事だ。恋愛をしていない事は勿論、まるで問題ではない。恋愛をしているかもしれない自分の存在に想いを巡らせることの出来ない貧しさだけが問題だ。あったかもしれない現実。物語においては、それは夢想ではなく、事実だ。その事実を裏付ける技術の集積を想像力だと思いたい。この想念はデタラメだが真実である。

■無茶苦茶な文章だ。私には文才がない。これは逆説ではない。才能がないのに、やる。才能があってやってる人より100倍立派だと思う。

■8月のアタマから恐る恐る始まっている稽古は今、お盆休み中。明日の夕方から再会の予定。休みの間、めだかの水を取り替えたり、じゃがいも掘ったり、 伸びすぎたトチの木の枝を切ったり、昼寝をしたりする合間を縫いながら書き進めた戯曲を、出来たところまでプリンターで印刷した。 時間をかけて書いた台詞も、何も考えす2秒で書いた台詞も、分け隔てなく無感動なままガーっと印刷されて出てくるのが爽快だ。プリンターの、その「なんでもない感じ」が好きだ。蓄積した時間が黒点となって、白い印刷用紙を埋めてゆく愉悦。

小野寺邦彦


#164 GOD ONLY KNOWS / 2020.10.04 MON

■「鬼滅の刃」が大人気だ。ドイツに住む知人の娘5歳も夢中らしく、オンラインで禰豆子コスプレ見せてくれた。着替え中に まだカメラ繋がないでね!まだだよ! って言ってる声がそのうち、ウググ…ムググ…とくぐもったので、 ああ竹筒咥えたんだなって分かったのが面白かった。

■区切りをつけることが苦手だ。

■学生時代、羽振りのいい先輩がいた。 代々木上原の住宅街で2DKの部屋に一人暮らし。 CDや雑誌、映画やゲームのソフト、山のような衣服に囲まれたその部屋は、 当時窓のない三畳一間の倉庫で寝泊まりしていた私にとっては宮殿だった。 バイトはせず仕送りで暮らしている、と言っていた。 ある晩、部屋で朝方までゲームをした後、24時間営業のファミレスに行き、注文を待つ間に彼が言った。 「オレは30過ぎたら実家継ぐ約束で東京にいるから。それまではウチの金で好き放題していいってキマリだ」と。 私は、ショックだった。人生に区切りを設定している、ということ。

■中学生の頃、不良と呼ばれていた人々を観察すると、彼らはしょっちゅう写真を撮っていた。 「ヤンチャ」で「バカ」な行動を、いずれ自分たちが語る武勇伝になるであろう行動を好んで選択し、記録に残した。 「今」という時間をいずれ語るための「過去」として、初めからとらえて行動している。それは想い出の記録を取る目的で旅行に出かけるようなものだ。今が未来の想い出として、奉仕している。 若い時代に思いきり遊んで、一区切りつけばそれを輝かしい思い出として次の生活へと舵を切る。 今という時間が、絶えず目減りし続ける制限時間の中にある、という認識の元で暮らすということ。それが私には理解できない。

■常に今は今でしかなく、それが未来どのような影響を及ぼすかなどとは思ったことがない。 それは私の持つ唯一の作劇術でもある。 常に問題は今だけだ。 だから伏線や物語の後出しは考えない。昨日書いた言葉の意味が、今日その続きを書いた瞬間初めて分かる。 私は自分の作劇に絶対の自信を持っている。それはすべてのエピソードや展開や台詞を自分の書いた物語の中からだけ探してきているという点において、だ。 それが時流に乗ったものでないことは分かっている。私が時流に乗ることなど生涯ない。そのような書き方を選択したわけでは決してない。そのようにしか書けないのだ。 私は技術を身に着けることが出来なかった。

■架空畳第18回公演『インテグラルの踵は錆びない』初日まであと10日と少し。台本は史上空前の速さで完本(初日の28日前)。 台本がある。余裕を持った稽古が出来ている。 感染症の脅威は依然世界を覆ってはいる。 観に来る・来ないは各人にお任せして、作品を排出する。今やりたいことだけをやる。それだけが区切りを打てない万年ボンヤリ野郎の私が 息を吸って吐く唯一の方法だ。

■今、深夜1時半。新宿三丁目の珈琲貴族には終電を逃した難民たちが肩を寄せ合っている。ビーチボーイズの「グッド・ヴァイブレーション」が流れている。

小野寺邦彦


↑ TOP