NOTE

生活と創作のノート

update 2017.05.07

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F小説

POST WAR BABY.s NOTE


#097 解放系 2014.5.27.TUE


■村上春樹の新刊を読んでウットリするのも宜しかろう。だが、ときに思い出して欲しい。彼は女性の下着を『パンティ』と描写する作家であるということを。

■『血と暴力の星』が終わってから、某所より、ワークショップをしませんか、というお誘いを頂いたのだった。ワークショップ。謎の言葉。本来の意味はあるのだろうけど、早い話が『講習』だ。それにカルチャーの匂いをまぶすとワークショップになる。なんだ、カルチャーの匂いって。それは、平日の真昼間午後3時とかに都心にある会場に一回15000円払って通えるようなライフスタイルを持つ者にのみ与えられるかぐわしき称号である。いや、ほんとにそういう時間帯ばかりなんですよ、こういうのって。絶対に勤め人は来られない。そこに通える、という時点である種のヒエラルキー、文化の享受を許された特権階級感は漂っているわけです。集まるのは大体、ハイソなマダムかこじゃれた学生。ごく一部、異様な迫力を醸すフリーター件小劇場俳優。暇な金持ちと暇な貧乏人。まさしく文化の位相が表出する現場といえる。嘘だけど。

■などと揶揄する私自身、かつてそのような催しに足繁く通った過去もある。当然、異様な迫力層代表。素晴らしいプログラムが数多く存在した。特にキャロットタワーで行われた一連の講義は今思い返しても相当豪華かつ楽しく、刺激的な内容が目白押しであった。けどまあ、そんな素晴らしいものもあれば当然、ヒドいというか、くだらないというか、金返せというか、詐欺まがいのモノも数多く存在するのである。というか、詐欺である。全ては講習の第一回目、講師の第一声にある。奴らは言うのだ。

『さあ、解放しましょう』

これである。一言目に『解放』。二言目も『解放』。肉体や精神や社会やなんやかや、抑圧から解放された者にしか真の演技はできないのである。解放したくてしたくてたまらない。解放原理主義。解放こそが全てだ。解放しなくて何が人生だ。解放に捧げた生涯だ。解放のためなら死ねる。解いて解いて解きまくれ。解いたら放て。そら解放だ。真の人間に戻るんだ。解放だ、解放だよ、解放するんだ、てめぇこの野郎、解放しろぉぉぉぉ!!!って、それを抑圧っていうんだよ。ばか。

■過激なものになると、社会性や羞恥心を破壊するために、一人が複数人に取り囲まれて罵倒されたり、性癖を喋らされたり、隣りあった男女にキスをさせたり、自慰を強要されたり。これ、本当ですからね。実際にその現場にいたことがある。自己啓発というか、完全にマインドコントロール。そうやって人格や社会性を徹底的に破壊し、『私』を失わせることで、講師の言うことをなんでも全て聞く、優秀な俳優が生産されるのである。カルトですね。っていうかもともとカルトな新興宗教や自己啓発セミナーの人格改造プログラムは、伝統的な演劇のレッスンのメソッドを徹底的に研究・参照して作られたものなのである。本家はこっちなんである。だが、指導者の言うことを100パーセントすべて聞き、意のままに演じる俳優が『真の俳優』であり、その演技こそが『真の演技』なのだというのなら、私には必要がない。解放なんてしなくていい。だいたい、人格や社会性を失った奴の芝居なんて見たくないよ。ていうか芝居以前に、そんな人間は、イヤだ。ちゃんと恥や照れや常識を持ったまま、演技をして欲しい。クールに狂い、醒めて踊る。そんな演技が好きだし、ステキだ。 で、そういうことを提唱するワークショップならやりたいと提案したところ連絡が途絶えたので、良かったなあと思っているところです。

■とは言え、多くの講座は実際にはそこまでハードコアにわかり易く『解放』を迫ってくるわけではない。 だからこそやっかいだ。教室に流れる『ヒーリング系の音楽』や『幼児期の体験』の告白や『なんかよく分かんない体操』などに潜んで虎視眈々と『解放』を迫ってくるのが 奴らのやり口なのだ。気をつけましょう。

■そんなわけで、次回公演の詳細が出ました。『ポストウォー・ベイビーの逆襲』。9月、吉祥寺シアターにて。これまで15本ばかり芝居を作ってきて、再演は2作目。ムチャクチャに書き直しておりますが。ジュラ記もVOL.7に突入。あっ、VOL.1がポストウォー・ベイビーの初演だ。思えば、この頃のブログは短かった。たぶんまだ学生で、言いたいことが出来たら即、喋ることの出来るヒトビトが周囲に何人もいたから、わざわざブログで喋る内容も少なくて済んだのだ。今は溜め込んでいるからね。でも言ってることはあんま変わってない。

■再演とは何か。リピートなのか。別物なのか。思い入れか、手抜きか。その意味と価値、あるいは無意味、無価値。そんなこともボチボチと考えていきます。書きながら、考える。口に出してみて、間違える。盛大に間違えます。どうぞご期待ください。

小野寺邦彦


#098 デジタルの神様 2014.6.1.SUN


■BlackmagicのPocket Cinema Cameraを触る。

■ああ、いいなあ。なんていいんだ。カワイイやつだ。素晴らしいオモチャだ。普段ほとんど物欲を感じない私だが、10年ぶりくらいに、欲しいなぁと思ってしまった。今はなあ、こんなものがこんな値段で手に入るんだなぁ。多分私がいま、高校生だったら、芝居じゃなくて映画を作っていると思う。プロとアマのあいだに機材の壁は、もはやない。逆にマンガとかはね、昔は紙とペンだけで描けただろうが、もはやパソコン必須の感がある。描けるんだろうけどね、アナログでも。でもやはり、デジタルのアドバンテージは圧倒的だろう。完全にアナログで描く人は、文字原稿をパソコンを使わず全て手書きで書く人くらいには希少になるはずだ。

■高価だった機材は安くなり、機材を必要としなかったジャンルにはそれが導入され、コストがあがる。芝居の世界だって、音響・照明卓はもはやフルデジタルだし。映像を使うのも今ではまったく普通。なにせ仕込み中に、宮沢章夫のエッセイにも名高いあの『レンダリング待ち』がある世界である。レンダリング待ちで場当たりがストップ。レンダリング待ちで昼飯休憩。なんだかデジタルで凄いな、と意味もなく盛り上がるのである。デジタル待ち。と同時にそれは、なんだか神様が『降りてくる』のを待っているような時間にも感じるのである。デジタルも神様も、実態が分からないことについては同じだ。イワシの頭にも信心。2進数の神様がいたって不思議はない。よくわからんものに頼って、よくわからん芝居を作っている。

■すごく若い人たちの芝居を観る。劇中、こんなセリフのやりとりが何回かあった。

A『~なんですよ』
B『そうだったんですね』


そうなんですか、ではなく、そうだったんですね。今の感覚。今のコトバ。およそ芝居のセリフとは思えぬほど不用意な言葉だが、リアル、といえばリアル。別に意図して使ったわけではないだろう。日常、使う言葉としてごく自然に書いたセリフに違いない。作家の人柄や人格やらというものは、入念に意図を張り巡らせた恣意的なセリフにではなく、無意識の部分、無防備な部分にこそヒョイと出て現れる。つまり私にとってその芝居は、普段「そうだったんですね」という言葉を何の引っかかりもなく使う人が書いた芝居ってことで、つまり、若い人が書いてるんだなぁと、あたり前のことをしみじみと思う。題材の選び方や役者の年齢なんかではなく、そういう部分に年代、のようなものを感じるのだった。面白いね。もっとイロイロあるはずだ。日常、常識的に流通している、今のコトバ。是非バンバン迂闊なセリフを書き殴って頂きたい。劇作家たるもの、迂闊たれ。迂闊は文化だ。迂闊こそモードだ。迂闊よ起これ。そのとき、私は劇場で迂闊なセリフを集めて回る一頭の獣である。その暁にいつか迂闊なセリフだけを用いた迂闊な会話劇を書くのだ。

■などと書きつつ、実際にはムチャクチャな言葉の使い方をして芝居の度に叱られてばかりいる私こそが、実は最も迂闊なセリフを書く人間なのだった。そうだったんですね。

■台本と格闘する日々。第一稿はサッサと書き上げ、今はそれをガリガリと書き直している。書き直すというか、書き壊す。一度終わりまで行き着いた物語の筋道をすべて塞ぎ、壁に横穴をあけて代わりにそこから進んでみる。そういった実験。試行錯誤。何せ、再演である。素材としての物語は、初めからそこにゴロリとある。最終的にたどり着く場所が見えているのならば、どれだけ無茶な『行き方』ができるか?そこに再演の価値がある。愉悦がある。初演ではやはり『どこへたどり着くのか』、それが大きな課題であり、興味だ。ならば再演では『どのようにたどり着くのか』にトコトン拘りたい。ありとあらゆるすべての道を行き、壊す。気づけば丸裸の荒野かも知れない。結局、そのド真ん中をヌケヌケと通ってゆくことになるのかも知れない。

■たった一行のセリフ、その語尾の一文字を変えることさえ、冒険だ。かつて自分が書いたセリフを批評し、解釈する。自分自身を他者として扱うこと。鏡に映った、えらく間抜けな顔の上をマジックでせっせと修正してゆくような感覚。ソレを修正と呼ぶのか、悪ふざけというのかは微妙なところだ。いや、やはり破壊だな。鏡ごと、バリバリと打ち砕かなくてはダメだ。なかなかは上手くはいかない。うまく見せようとも思わない。ただ、取り繕う。必死で取り繕う。そのごまかし方の手つきを洗練させる。見せるべきは、そこしかないと思っている。

■6月になりました。本番まで、あと3か月。しかしもうまるで夏の気候だ。本日の気温は30度。9月にはどうなっているのか。猛暑か。酷暑か。天国のように涼しい劇場でお待ちしています。

小野寺邦彦


#099 完本 2014.8.10.SUN


■「私は心がオジサンだから」、って言う女性。「俺はさ、ほとんど女子だから」って言う男性。それぞれが周囲に同じ数くらい、いる。皆、好きなものになればいいと思う。

■終わって既に一月経つが、ワールドカップサッカーは面白かった。競技自体も面白かったが、興味深かったのはそこで使われていたコトバだ。中でも『自分たちのサッカーができなかった』はだいぶ槍玉に挙げられたが、やっぱ、マア変なコトバである。相手がいる勝負の世界で、えらく内向的なコトバだ。相手が強かったから負けたのではない。自分らしくなかったから負けたのである。OLか。自分を探しにバリにでも行け。

■サッカーも今や「道」である。武道、書道、野球などのスポーツ、マンガですら日本では「道」だ。例に漏れず日本式に「道」化するサッカー。そのことは、本屋へ行き、サッカー関連書籍のコーナーに立ってみれば分かる。現役の代表選手たちの名が著者として掲げられた圧倒的な数の書籍の書名を見れば、 曰く『心を整える』、『準備する力』、『道を拓く力』、『上昇思考』、『日本男児』ときて『明日やろうはバカヤロー』って何者だ、お前は。健康標語か。誰がバカだ。バカ。

■そのほぼ全ては戦術書、技術書などではなく、一流選手の「心構え」を説く、正しく自己啓発本なのだった。サッカーの上達はまず心から。 イヤだよ。誰がそんな競技を見るものか。シャツの裾をベロベロとさせろ。チームに一人はモヒカンかアフロヘアーの選手だ。 ピアスは言うに及ばず、景気づけにタトゥーの一つも入れてみろ。実力さえあれば人格など知ったこっちゃないのだ。それこそが自由だ。憧れだ。若者の目指す場所ではないか。 ところがである。決勝戦が終わった翌日の電車の中で、乗り合わせた高校生が言った言葉を、私は聞いたのである。
「俺はメッシはダメだと分かっていた。目だよ。目が濁っていた」

■例えカーテンコールで拍手を一つももらえず、アンケートをクソミソに書かれようとも、「自分たちの演劇ができなかった」とは言うまい。っていうか、誰に言うんだよソレを。芝居にも「道」があるならば、せめて横道、あぜ道、寄り道、道草。そこだけを通っていく。濁った目で。

■さて、2ヶ月ぶりのジュラ記です。この間、何をしていたのかといえば勿論、台本を書いていた。延々と書いていたのだった。深夜。早朝。夕方。また深夜。深い穴に潜り、既にあるセリフを書き換え、新しいエピソードを詰め込み、壊し、組み立てなおす。そうやって丸一ヶ月。ほとんど姿を変えた2014年版の『ポストウォー・ベイビー』が書きあがった。書きあがったので穴から出てみて、初演版の台本と読み比べてみたのだった。なんという事だろう。初演版のほうが面白い。遥かに面白いのだ。

■書け過ぎている、と思った。アイディアと技術が釣り合って、噛み合い過ぎている。 つまり、技術に比してアイディアが小さい。相対的に、小さくなっていた。はみ出ない。いびつさがない。デタラメでない。つまらない。そうなのだ。さんざんヘタだと罵られた私の劇作技術も、さすがに5年もたてばイヤでも向上してしまうのだ(あくまで本人比)。アイディアのベースが5年前のままである以上、それを現在の技術でもって、お上手にまとめあげるのはそう苦ではナイ。だがエピソードを取り替えたり、つじつま合わせに台詞をいじることで体裁を整えたとて、それが何だというのか。終わりの見えている物語に先回りして意味シンなセリフを配置し、「伏線でございました」とばかりに回収する。そのイヤミさ。っていうか、それは伏線ではナイ。単なる都合だ。伏線とはポンと置いておくものではなく、既に書かれた物語の中から発掘するものだ。自分で掘った穴を自分で埋める。それを伏線の回収とは言わない。気付いたら穴の中にいた。そこから脱出する手管こそがそれだ。例えそれが「夢オチ」であったっていい。既に書かれた物語から「夢であること」を発掘したのであれば。

■既にある作品、出来上がった物語を分析し、その構造をバラし、理解るすことはいくらでも出来る。だが逆算的に、ひとつひとつバラされたパーツを組み上げさえすれば、作品を作れるのかといえば、少なくとも私にそれは出来ない。全体を要素に分けることは出来る。だが分けられた要素を全て合体させても全体は作れないのだ。間違ったことを言っていると思うが、しかしマア、そういうことなのだった。結局、方法論などなく、アタマ抱えてウンウンうなる以外、書く方法はナイのだ。絶望だ。

■そんなわけで『ポストウォー・ベイビーの逆襲』は初演版の稚拙な台本の稚拙な構成と稚拙なセリフを生かし、より大きな不格好を加えて上演することに決めた。クラシックスタイル。上演台本があがったのは8月1日。稽古をしてみて、笑ってしまった。未熟な台詞だ。だが、恐ろしく魅力的だ。役者も然り。未熟で、魅力的なヒトビト。稽古こそがヨロコビだ。稽古より楽しいものがあるだろうか。自分の書いた芝居のセリフを、驚くべきことに、読んでくれる人がいる。幸福である。

■連日の猛暑日、酷暑日の最中、奇跡のように涼しい夜だ。舞台で使う楽曲を選曲するために、音楽をかけっぱなしにして今、この文章を書いている。ジャンゴ・ラインハルトの演奏する古い曲。午前3時。台風が近づいている。

小野寺邦彦


#100 売りコトバ 2015.1.20.TUE


■喧騒の中でフイに、こんな言葉が聞こえてくる。

「私、絶対、幸せになるから!」

絶対か。絶対はイヤだなぁ。絶対は怖いよ。絶対。それはどんな手段を使ってでも、ということだ。例えどんなヒドい目にあったとしても、ということだ。絶対幸せになりたい彼女にとって、最大の難事とは。それは勿論、不幸せになることである。それすらも厭わない。つまり、こういうことだ。

『例え不幸になってでも、幸せになってみせる』

考え直して欲しい。絶対に幸せになどならなくてもいい。不幸せになってまで、幸せになることはないのだ。

■絶対に面白いから観たほうがいいとか、観ないと損するからとか、そういって誘われた芝居には行きたくないよ。絶対的に面白いものが存在すると思っていたり、得するために芝居を観ようと考えるような人間と趣味が合うとは思えない。観ないと損するよって、大体それ、脅迫じゃないか。何も脅すことはないだろ。あ、でもな。『これは宣伝ではなく脅迫だ。観に来なければどうなるか』。そこまで開き直っていれば行ってみたい。一度くらいならね。

■日頃、そんな細かいことをゴチャゴチャと考えているから、いざ自分の芝居に人を誘うことがすごく難しいのだった。あなたに観て欲しい、それしか誘う言葉がない。営業失格。ばかりか興行主失格だろう。売りは何か、と問われて戸惑う。売り。ウリかぁ。そんな大それたモノは思いつかないのだった。と、考えてさまざまな劇団の宣伝やウェブサイトを覗いて見ると、かなりモノスゴイことが書いてある。ここで詳しく言及はしないけど。その文言が、自分たちが絶対に面白いことをやっているのだ、と叫んでいる。観ないと損をするのだ、だから、観ろ、と。それは悲鳴だ。芝居を観にゆけば座席に積まれている、ブ厚い公演チラシの束。その一枚ごとに記された、過剰な自薦の文句を目にする度に、なぜか私はくじけそうになるのだった。全くもって余計なお世話なのである。

■『ポストウォー・ベイビーの逆襲』から4ヶ月。2015年。季節どころか年まで変わってしまいました。その間、私は咳が止まらず肺が真っ白になったり、内臓の一部を数センチだけ欠いたり、両耳の聴力が半分くらいになってしまったりとカラダの不調著しく結構イロイロあったものの、何だかんだ年を越し、まあ命はあるしコーヒーだって飲んでいる。芝居のことは考えたり忘れたり、でもやっぱりずっと考えていたのだった。

■『逆襲』は私の舞台では初の純粋再演。初演時から台本には殆ど手を入れなかった。ホントは二ヶ月くらいかけてもの凄く改稿したのだけれど、結局ソッチは使わなかった…というのは
以前も書いた。比べてみたら初演時の台本の方が面白かったから、というのは嘘ではないけど、ちょっとボカした言い方だ。何をもって初演時の台本の方に「面白さ」を感じたのか。ソレは自分が何でそんな台本を書いたのかサッパリ忘れていたし、ところどころ意味が分からなかったからだ。確かに以前自分が書いた、けれど今となってはまるで覚えがない台本。こんなに面白いモノが他にあろうか。

■改稿の果てに生まれ変わった新バージョンの『逆襲』には、現在の私の全てを注ぎ込んだ。セリフの意味や意図、舞台で起こる全ては掌中にある。でもソレはいつものことだ。自作自演の作者にとって、作品を十全に理解しコントロールすることなど当然だ。作者だし、書いた直後なんだから(作品中に、仮に「わからなさ」を含んでいたとしても、それも意図の内)。けれどこの舞台は再演だ。それも忘れかけた芝居の再演なのだ。忘れたこと。間違えたこと。思い出すこと。わからないこと。それらを知ること。新作には新作の、再演には再演でしか得られない冒険があるはずだ。そうあるべきだ。そんなワケで、改稿した台本を惜しげもなく破棄し(本当はちょっと惜しんだし、ハードディスクにシッカリ保存もしてある)純粋再演としたのだった。結果として、私はこの舞台からとんでもなく多くのことを学んだ。良いことも悪いことも同じくらい起こった。興奮に震えたし、頭を抱えもした。稽古中、本番中。ほとんど毎日が ソレだった。

■その最中、次にやりたいコト、やるべきコトがボンヤリと見えてきたのだった。ハッキリとではなくてボンヤリとしか見えないのは、その道のりの果てしなさを思うからだ。うんざりするほどだ。しかも別に正しい道というワケでもない。大抵、間違っているのだ。だからちょっと歩いて、すぐ立ち止まる。ボーゼンとする。進むことのしんどさ。来た道を戻る億劫さ。しばらくそこから動くことができない。その間、こうやって駄文に沈む。こうなったらもう、トコトン沈むのみだ。

■ところで、サラダにオクラを入れると、とても美味しい。麻薬のように美味しいのだった。あまりにうまいので、茹でたオクラをタッパーに詰めて持ち歩き、ファミレスのサラダに入れて食べたりした。眉をしかめられようが知ったことか。私を止めることはできない。止める者もいない。

小野寺邦彦


#101 wannabe 2015.1.22.THU


■なりたい自分になりたい、などと考えない自分になりたい、という人はどうすればいいんだろうか。

■夢を持たないことが夢、とか。それはニヒル過ぎるか。キメ過ぎか。欲しいものが、欲しいわ。それじゃバブルだ。一行一千万円だ。でも最上を目指すって、そういうことだ。もうこれ以上、望むものがない自分になりたい、ということ。つまりまあ、なりたい自分になれよ!って、かなり高いところからのコトバだ。押切め。押切の奴め。何が押切だよ。ふざけやがって。押し切ってばかりいやがる。寄り切る日はないのか。たまには吊り落としてみたらどうだ。 どうだ、ってコトもないが。

■などと揶揄する私にだって、当然、なりたい姿というものがあったハズだ。 …あったかなぁ。取り敢えず、芝居の台本は書きたかった。書きたかったので、 躊躇なく書く事にしたのだった。そうやって、なんとなく芝居を始めたが、 私には何の技術も方法論もなかった。 書くべきセリフも筋立てもなく、あるのはただ書きたい、 芝居を作りたいという欲望だけだった。では、仕方がないのでそれを書こう、 というワケで『欲望だけがあり、それを満たす方法がない』という構造を、 まず全体の骨子とした。そこへエピソードを代入してゆく。 質は正直、計算できないので数で勝負するしかないが、当然、そんな数のエピソードなど捻り出せるわけもない。 手法は、ごく必然の成り行きでドキュメンタリーの形を取った。取材の対象は、これも当然ながら出演俳優。 稽古前、稽古中、稽古後。出演者に接近し、話を聞き、プライベートを掘る。そこからインスピレーションを引っ張り、 あるいは聞いたハナシをそのまま使い、エピソードとして無節操に詰め込んでいった。 まんまの現代劇ではナマ臭くなるので、SFや神話の寓意に頼って衣付けをし、稚拙さは目まぐるしさでゴマかした。そうやって何とかデッチあげてみると、ソレは確かに拙くはあったものの、思いも寄らず手応えを感じるシロモノになってくれた。創作ではなく、取材と編集。ツギハギとゴマカシ。それが私の芝居であった。この方法は私に合っていたと思う。私は「他人のハナシ」が好きなのだ。下世話なのだ。この方法ならば、私自身はカラッポで何もない人間であったとしても、周囲の人間への興味によって、作ることが出来ると思った。私は書き殴り、舞台を量産する中でこの方法論を必死で身体に叩き込んだ。旗揚げからの3年間は、そうやって過ぎた。

■そういう作り方に限界を感じ初めていたのがちょうど『ポストウォー・ベイビー』を初演した頃だ。学生当時、ほぼ固定された6人から7人のメンバーで3年間を過ごす中で、手法は確立され、俳優への興味は掘り尽くされた。台本の執筆ペースは目に見えて落ち込み、稽古に重大な支障をきたしていた。この頃、ショックな出来事があった。その日、やっと書いた台本の数ページを稽古場で俳優に渡すと、それを読んだ一人が『当たった!』と叫んでガッツポーズを取った。私のいない稽古場で、俳優たちが、台本の先の展開を予想し合っていたのだった。しかも、的中。私は取材相手を変える必要に駆られた。未知なる取材相手、それは私自身である。他人のコトばかりネタにしてきたツケがついに回ってきたのだ。私は自分自身に取材してエピソードを捻りだし、その取材元を徹底的に隠し通すことに全能力を注いだ。物語を隠れ蓑にするしかなかった。こうして『ポストウォー・ベイビー』は完成した。その上演を観ながら、私は自分の芝居で初めて、俳優が取り替え可能な物語を書いてしまったと思った。その公演を最後に学生時代は終わり、メンバーは四散したのだった。

■セルフ・ドキュメンタリーの手法と、その隠蔽の技術としての物語。新たに語るための方法論を手に入れた私が次にやったことは、 上演する劇場を大きくすることだった。それは必ずしも動員の増加を図って、ということではない。 当時、客席が100席以下の小劇場で上演していた作品への評価に、私は大いに不満であった。 目の前で演じられるために迫力があるとか、声が大きいとか。それはつまり、狭いから俳優が近い、というダケの話だ 。狭い劇場で俳優が汗だくになり、大声を張り上げながら演じることで客席が感化され、熱狂と興奮が起こっているだけだ。 作品への評価ではない。私は、もっとクールで冷静な、作品への目線が欲しかった。劇場を大きくすることで、客席は離れ、舞台は俯瞰され、 俳優の声は天井に吸い込まれた。アンケートには辛辣な意見や批評的、あるいは批判的な意見が目立つようになった。 これでいいのだ。それが正当な評価なのだ。紛れもなく、未熟であることがハッキリとした。近さと勢いでゴマカシながら、 ウケていると勘違いしている場合ではないのだった。

■9月の公演で吉祥寺シアターを使えると決まったときのこと。前作『血と暴力の星』では自分のコトを書きすぎたので、次は虚構性・物語性の強い『ポストウォー・ベイビー』をやろうと思ったのだった。前回書いたように、その内容は殆ど忘れていたけれど、役者が交換可能なまでに(私の作る芝居にしては、だが)ウェルメイドを指向した作品であると過去に感じたことは覚えていた。ならば岩松以外の全員が入れ替わった今、まさにそれを試してみればいい。大きな劇場での公演は、より批評的に作品をあぶり出し、その物語の構造を露わにするだろう。ソレが真に鑑賞に耐え得るものであるのか、どうか?恐れ多いハナシだが、肝は冷やしてナンボなのだ。 と、いうところで不必要に長くなったし疲れたので、続きは、また。(ホントに続くだろうか?)

■スカートの新譜を買ってきて、ここしばらく聴いていたんだけど、どうもちょっと、おかしなコト になっていないか。 楽曲は文句なしに素晴らしいのだが、歌い方が…。 やたらとネットリしてしまった。 ハッキリ言って歌詞が全く聞き取れませんでした。 本人がいいなら、仕方がないけどね。楽しみにしていただけにちょっと、残念。

小野寺邦彦


#102 永い道 2015.2.5.THU


■何かと混ぜ返した物言いをする人。たとえば、こんな言い方。

「つまらな過ぎて、逆にそこが面白い」
「ダサいところが、かえってオシャレ」

・・・そうか?うーん、いや、やっぱり、つまらないと思う。だって、つまらないんだから。つまらなさを面白がってみせる者。おまえのような奴が一番つまらないのだバカ。

■「よく出来ている」というコトバを近頃よく聞く。小説、映画、音楽、お笑い、マンガ、芝居。「よく出来ている」。確かにね。でも、ソレと面白いこととはまた別。よく出来ているが、呆れるほどつまらない。そんなモノが周りに沢山ある。本当に沢山あるのだ。けれどソレは、つまらないモノにさえクオリティーはある、ということだ。ソラ怖ろしいハナシだ。役者は達者で美術は豪華、スタッフは一流で凄くつまらない脚本の芝居とかね。観ると不思議になる。ここまでヒドい脚本の作品に、よくもそこまで打ち込めるモノだ、と。イヤにならないのかな。それがプロということか。つまらない作品にさえ等しくクオリティーを与える者こそプロフェッショナルなのか。私は到底ムリである。ムリ過ぎて気が遠くなる。つくづく、向いていないと思う。トットと足を洗うべきなのだ。

■前回の続き。結論からいえば、私には演出力がなかった。いきなり結論を言ってしまうのもどうかと思うが、そうなのだった。稽古場で役者にセリフを読んで貰い、演じる姿を見ていると次々とアイディアが浮かぶ。セリフの意味やシーンの意味。分からなかったことが分かってくる。そこまではいつもと変わらないのだ。普段はソレを手がかりに、途中までしかない台本の続きを書き進める。だから稽古場で起こることや出演する俳優に依って、台本は変化してゆく。それが私の作り方だ。だが、『逆襲』では台本はあらかじめ全てあり、その変更も(自身に)禁じた。その不自由さから産まれるものが知りたかった。

■過去の台本と格闘する日々の稽古で、今ならばこう書く、この俳優にはこのセリフは言わせない、代わりにこう言わせる。ならば展開はこう変化する・・・そんな考えが次々と産まれたが、台本の変更は出来ない。では、そのアイディアはどう生かされるべきなのか。勿論、演出である。ストーリーではなく、セリフではなく、演出を変える。工夫する。それによって、戯曲の内容を一文字たりと変更することなく、その意味を、読み方を変えてゆく。それが出来なかった。テクニックというか、引き出しというか。技術がないのだった。思ったことを思ったままにセリフにしてきたツケだ。私の、芝居における創作のエネルギーはその殆ど全てが台本、戯曲を書くことに注がれていて、演出とはその意図を過不足なく伝える手管でしかなかった。交通整理の方法に過ぎなかった。

■例えば、あるシーンで、演出家としての私が俳優に、スローモーションの動きを付けたいと考える。だが、俳優にその技術がなく、私にもそれを指導する方法論がない。そんなとき、私はアッサリと台本を書き換えてきた。俳優がスローモーションをしなくても、それと同等の印象を得られる内容に、セリフを、シーンを、修正してきたのだった。俳優に依って台本を書く。聞こえはいい。だが言い換えればソレは省エネということだ。努力を省くことで、引き出しを増やす機会をひとつずつ潰していた。それが積もって、このザマというわけ。

■だから今、自身は台本を書かなくとも、自分の表現にしてしまう演出家という人々を尊敬するし、勉強しようと思う。例えばティム・バートン。彼の監督作はどれも・誰が観ても、間違いようがなく彼のものと分かるほどに「イロ」がついているけれど、彼は脚本は書かない。どんなハナシも、その演出で自分のルックスにしてしまう。作家性を施してしまう。

■ではどうやって演出の腕を磨くか?それが問題。大問題だ。当然、理論と実践だが、理論は兎も角、実践をどうするか。前回書いたように、私は台本の書き方を、当時の出演俳優への興味追求によって覚えていった。であるから、演出だってそうしたいのだ。一人の俳優を徹底的に観察し、様々な角度から魅力を探る。そうやって手探りで堀り当てる、五里霧中でのシドロモドロがやがては自覚化され、手法化されてゆくだろう。表現はそれから始まる。ソレは分かっているのだ。だが、その俳優はどこにいるのか?

■かつての学生時代と違って今、架空畳に固有の俳優はいない。目指すべき表現のかたちを一緒に模索し、徹底的に付き合ってくれる俳優、それが必要なのだった。しかし差し当たり次回公演の予定もないままにそんな酔狂に付き合ってくれるヒトビトがいるとは到底思えない。『逆襲』出演者でいっても、岩松、佐々木くん、江花さんは元々ひとりでバンバン活動しているし、佐藤、門田も自分たちの集団を立ち上げ、活動を始めた。柴山さんと永井さんは学生だし、田村さんに至っては勤め人である(恐るべきことに正社員)。みんな、自分のことで忙しい。学生時代、芝居をやっていてストレスだったのは、「忙しいから」や「やることあるので」という理由で、稽古を休むひとが常にいたことだ。優先順位の一番ではないんだな~と思ってシュンとした。俺は一番なのに。そうなのだ。一緒に芝居を作る人は、今、私とつくる芝居を優先順位の一番に置いて欲しいのだ。なんというワガママだ。だが仮にそんな人がいたとしても、与えられるメリットが、今の私には何もナイ。だから自分のコトで忙しい人は、やっぱり自分のコトを一番にするべきなのだ。

■やはり、必要なのか劇団員。ださいけどな。団員。団員はイヤだよ。団員と友達にはなりたくない。知り合いが団員になったと聞いたらどうだ。友人の息子が団員に。全力で止めるね、俺は。じゃあどうするんだ。それでワークショップか。メンバーも持たずに場数が必要となれば、そりゃ、そうなる。
さんざん、バカにしたクセにね。こうやって孤独な演出家希望者が迂闊に手を出すのがワークショップなのか。でも継続性ということを考えるとやはり疑問は多い。実はまた誘われたんだけどね。ワークショップやらないかと。ここまでくると私の顔がもう、ワークショップやりたそうな面相をしているとしか思えない。ワークショップ面(ヅラ)。しかし、いくら顔がそうでもなあ。顔で芝居を作る訳ではないし。いるのか。顔で芝居を作る人。是非一度会ってみたい。

■夜が長い。夜は暇だ。暇に任せてグチャグチャと陰気な文章を書き連ねてしまったが、勿論、公演自体は面白かった。すごく面白かったのだ。俳優は(毎度のことだが)頑張り過ぎて例外なくボロボロになり果てたし、吉祥寺シアターは素晴らしい劇場だった。だからこそ、なのだ。だからこそ、もっとやれることがあったし、この先にやるべきことがハッキリとある。だが道のりは遠い。遠すぎてうんざりするというのは、だから、そういうことなのだった。

小野寺邦彦


#103 まとめ人生 2015.2.7.SAT


■スタジオ・ボイスが復刊するという。

■2009年8月に出た休刊号(9月号)の表紙コピーは『どこよりも早いゼロ年代ソウカツ!』。これを書店で見たときのショックはスゴかった。唖然としましたね。

「もうまとめやがった」

■『ゼロ年代』まだ終わっていないのに、まとめてしまう。「今」を既に「過去」として「総括」してしまう。意味付けようとする。その行為こそが、今からすればまさしく『ゼロ年代』的。アーカイブ。データベース。そもそも『ゼロ年代』ってコトバ自体、私はこの号で初めて発見した。少しだけ調べてみたら、2008年の現代詩手帖4月号の特集が『ゼロ年代詩のゆくえ』。古本で買ってみて、面白かったけど別にゆくえについては書かれていなかった。スタジオ・ボイスの「総括」も今読めばぜんぜん的を外していてヘボい。というか、本当はゼロ年代の総括ではなく、ゼロ年代に死んだ有名人・文化人の追悼企画。インチキだ。ズルいぞ。「どこよりも早い」はまあ、シャレてますが。

■フライング気味の早い者勝ちで意見を言っても、あんまし良い事はない気がするが、でもファッションとしては正しい。時代の最先端ファッションは後の時代から見ればダサくてネタにされてしまうけれど、生きているのは「今」なんだから、後出しジャンケンの安全圏から揶揄してくる卑怯者にビクビクすることはないのだ。今、ダサく見えるのは、過去のある瞬間だけ、とんでもなくカッコよかった証拠。その覚悟のコトバこそ「どこよりも早い」。悶絶するが、馬鹿にはしない。

■でもスタジオ・ボイス、なんだかんだで好きだった。何が好きだったかと言えば、読めないところだ。文章が、ぜんぜん読めない。オシャレで格好良すぎるレイアウトのもと、とんでもない分量の文章がミニマムすぎるサイズで「デザイン優先」にミチミチと詰め込まれ、マジで虫眼鏡でも使わないと無理。赤とか黄色とか緑とかのカラフルな紙面に文字が配置されて目がチカチカする。白地に黄色の文字を置く。同ページ内で複数のフォントを使う。デザインこそが本体で、読み易さなど二の次。そこがいい。シビれる。私もよく芝居のアンケートで「セリフが聞き取れなかった」「言葉が早すぎて何を言っているのかわからなかった」と頻繁に書かれる。でも、それでいい。『何を言っているか聞き取れないほどの速度で喋っている』ことこそが最重要なのであって、意味を汲み取って貰うために速度を落とすなどということは有り得ない。スタジオ・ボイスはオシャレで格好良くて知的。読めなくたって問題ない。読めてダサいより全然マシ!過剰にスタイリッシュ。そこに意味があったし、突き詰めていたので立派なのだった。まあ、読めないんだけど。復刊しても是非、文字が全然読めないかっこいいレイアウトを貫いて欲しい。

■「お前のこと、まとめてやろうか」というのはかなり怖い脅し文句ではなかろうか。

■物語という枠組みだって「まとめ」だ。台本を書いていて一番楽しいのは前半で、後先考えずメチャクチャに色んな要素を撒き散らして回る。事件、人物、固有名詞。思わせぶりな展開、謎、ミステリー。だが後半、それらを「まとめ」て一つの結論に導いてゆく工程は苦行である。考えてないからである。そこでアタマを創作から編集に切り替える。これまでに出た要素を拾い、つなげ、意味付をし、最も納得できかつ合理性・意外性の高い結論をデッチあげる。その瞬間は作家ではない。パズラーである。私はこの作業が得意ではない。稀に、奇跡のように(まるで初めから意図していたかのように)あらゆるピースが一点に収まってゆくときがあって、それはモウ脳から汁が溢れ出すほどの快感だ。でもそうやって組みあがった物語が総合的に面白いのかといえば、そうでもない。要素が結論に完璧に収まっていく、ということは、つまり予定調和ということだ。少し余ったり、収めてみたらサイズが違ったり。無理に収めようとして穴があいたり、形が変わってしまったり。そういうデコボコした物語のほうが、思い入れは強い。完璧に「まとめ」られる物語。それは打算であり不毛だ。同じものを観た人、読んだ人の全員が異なる「あらすじ」を語る物語。それが理想だが遠い。技術が足りないせいだ。デタラメに「まとめ」る技術。「まとめ」ることで、かえって拡散してゆくような。いびつに、スタイリッシュに「まとめ」ることが出来ないものだろうか。

■大雪が降る、降る、と煽っておいて結局降らない。ただ寒いだけで損した気分。

※追記。こんなこと書いてありますけど、やっぱ読めません。

小野寺邦彦


#104 東京トラウマ 2015.2.12.THU


■食堂にて。

「セーターの裾にうどんの汁がハネて、もう超トラウマ!」

トラウマのハードルの下がりっぷりに感動した。

■物語を観ていて、アレ、ひょっとして、このハナシのオチってまさかトラウマ?と嫌な予感がすると、大体その通り、トラウマオチである。事件の真相。恐るべき謎。心の闇。ナニが彼・彼女に起こったか?その答えは遠い過去、幼少期のトラウマにあるのだった。・・・こういうの、もう、いいんじゃないだろうか。今や夢オチより陳腐、安易に感じる。この人がこんな風になったのは、過去にこんなことがあったからです、って何かそれ、ズルい。後出しじゃないか。「今」のキッカケで「今」変貌してゆく様を描くことはできないだろうか。できると思う。『シャイニング』とか。かっこいいじゃないか。

■因果の元、原因。その一部始終を過去に求めるというのはワイドショー的だ。理由探し。殺人を犯したのはホラームービーを見たから。冷酷な一面はファミコンで培われた。無口な性格は鍵っ子だったから。両親の不仲からふさぎ込むように。相関図で語られる人間関係。将来の夢と顔写真は卒業アルバムから。

■ヘタなハナシほど、回想シーンが饒舌だ。ことある毎にフラッシュバック。あのとき、実はこうだった、って。確かに、物語に伏線はある。ソレは予感だ。ずっと目の前にあるのに、誰も気づかない。だがあるキッカケでソレが浮き上がった瞬間、それまで築いてきた物語=世界の意味、枠組みがガラリと変貌し、足下が崩れ落ちる、そんな企みであり構造であって、決して後出しジャンケンなどではない。

■中学・高校くらいの時分。女子たちの間で、インスタントカメラを使って日常風景を四六時中撮ることが流行っていた。休み時間や食事中、授業中に登下校、放課後。記念写真ではなく、日常写真。当時の学生の携帯電話(というか、PHS)普及率は50%以下。チェキにプリクラ。思い出作りにいそしんだ。大学に入ってしばらくして、ほぼ全員が携帯を持つ頃にはカメラは標準装備され、日常の撮影行為は加速、今日の空模様や毎食事の写真がブログやSNSにアップされた。我々は過去を構築することを楽しんだ。後に語られるべき過去を今、せっせと生産しておく。今を過去化する。それはすごく楽しい、娯楽なのだった。

■過去は謎に満ち、未来は不思議に懐かしい。過去は魅力的だ。過去は雄弁である。過去のない人間はいない。だが現在が常に過去の答え合わせに過ぎない、そういうドラマの構造に今、何の興味も持てない。たしかにそれは「よく出来ている」だろう。感心するのだろう。でも、だから、なんだというのだ。自分の提出した謎に自分で答えてみせる。マッチポンプじゃないか。ドンデン返しとかもね。そのドンデン、仕込んでる姿を思うと哀れだぜ。落とし穴を掘っている姿。それこそを、ドラマにしてみせろ。

■もちろん、これまでに私だって散々、使ってきた。トラウマ、過去語り、ドンデン返しに夢オチ。『逆襲』だってまあ、夢オチだ。でもそれを開幕五分であばいた。この物語は夢オチです、と宣言してから始まる芝居だった。その夢の内容を2時間見せる。『猿の惑星』のラストシーンから物語は始まる。既にドンデンに落ちきった状態から語られる筋書きなのだった。夜間飛行、三里塚闘争、P・K・ディック、魔女狩り。現れるモチーフのすべては終わった過去・歴史の追想だが、人物の意識だけが今である。当然、ベクトルは悲劇へと向く。ここが、コントロールできなかった。喜劇へと向かうべきだったと今は思う。用意した材料がごく当然に要請する流れに抗う意識が低かった。肉とジャガイモと人参があるからカレー、みたいな。その材料でフランス料理を作ってみるべきなのだった。できなくてもね、何か違うものになるハズなのだ。それができない。カレーを作ってしまう。おいしくても、ヘンな味でも、結局、カレーはカレー。これも、演出の技術不足。

■こんなことを書いていても、トラウマも過去もドンデン返しも夢オチも、結局、また書いてしまうのかもしれない。きっと、書くのだろう。パターンの威力は強力で、求心力があり、だからこそパターンとして君臨するわけだ。いつの時代もヒット曲はラブソング。当たり前のハナシだ。同じコード進行の音楽の中から、何百種類ものメロディーが生み出される。変奏。同じ構造から、異なるストーリーを無尽蔵に生産してみせるアレンジャー或いはメロディメイカーの才能こそ、時代にフィットするものなのだろうか。私の手つきは、極めて凡庸だ。

■たとえば。物語が縦軸と横軸という言葉で分解されるとき、斜めの軸というのはないものかと考える。縦軸は歴史などの時間を貫通する軸。横軸は人物やエピソード。では 斜めの軸とは?ポールシフト。地球の地磁気が移動してゆくように、極点が延々と滑り続けてゆくような、そんな作劇は可能なのだろうか。

■なんだか、よく分からなくなってしまったのだった。頭が痛い。風邪を引いた気がする。

■病院の売店にある休憩所に座っていた。一人で店番をするお姉さんが、レジ前に並ぶパンをことある毎に整理するのだが、一番手前のパンが、その度に必ずポトリと落ちるのだった。 落ちたパンを元に戻す。誰か客が来て、何か買ってゆく。手持ち無沙汰になったお姉さんが、パンを整理する。手前の一つが、ポトリと落ちる。落ちたパンを元に戻す。客が来る。 パンを整理する。ポトリと落ちる。客が来る・・・。永久に続くこのミニマルなグルーヴによって、世界の秩序が保たれているのだった。 いつか私も、あの売店で買い物をするのだろう。そのとき、手前のパンがポトリと落ちるのだ。

小野寺邦彦



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