NOTE

生活と創作のノート

update 2017.08.14

生活の冒険フロム・失踪者未完成の系譜TOKYO ENTROPY薔薇と退屈道草の星偽F小説B面生活フィクショナル街道乱読亭長閑


道草の

NO PLANET FOR OLD MEN.s NOTE


#082 だめになる私 2013.09.06 FRI


■朝。渋谷から吉祥寺へと向かう井の頭線の車内は、通勤ラッシュでぎゅう詰めである。詰めに詰め込まれた中に最後のひとりが押し込まれ、ドアがしまる。電車がゆっくりと動き出す。やれやれと一息ついたその時、私は気づいたのだ。

美女がいる。

今、私の右隣で肩を密着させているのは、紛れもない美女である。年の頃は30歳手前くらいだろうか。セミロングの髪は上品な栗色で、化粧はほんのりと乗せる程度。目鼻立ちの整った顔立ちに抜群のプロポーション。そして全身から立ち上る香りはコーンポタージュだ。

そうなのだ。ポタージュだ。

その全身から発せられる濃厚な香りは、どう考えてもコーンポタージュを頭からドラム缶一杯かぶったとしか考えられない。ポタージュに似た何かの匂い、などではない。比喩ではないのだ。そのものだ。ポタージュ以外は有り得ない。かくして新しい格言が生まれる。 美女にポタージュ。ポタージュのひとつも滴らせずになにが美女なものか。ポタージュが滴ってこその美女だ。べたべたと香水など振りかけて気取った女になぞ、ポタージュを被って出直せと言いたい。

■昔からよく道に迷う人間だった。地図は読めないし、そもそも勘が鈍い。今、ここに2つの道があり、そのどちらかが目的地へと続いているものだとして、私の選ぶ道は8割以上の確率で間違っている。余裕をもって家を出たとしても、初めて行く場所での待ち合わせには大抵遅れてしまう。気が急けば急くほど、目的地は遠ざかる。10分で着くといわれた場所に、30分経ってもたどり着けていない今、歩いている道が絶対に間違いであることは明らかであるのに、引き返すことが出来ない。何とか現在地から修正してたどり着くことを考える。だがここは一体どこなんだろう。喫茶店を探しているのに、周りには木しかない。どう見ても、林だ。ふと足を止める。もう進むことも、戻ることも出来ない。どこへも行けないし、帰れない。そんなときはもう、呆然とするだけだ。呆然があってよかった。呆然だけが、私を救ってくれる。

■だが近頃、事情が変わった。グーグルマップである。手元のスマートフォンから経路を入力すれば、目的地までナビゲートしてくれるのだ。今歩いている道が、画面の中で立体的に描画される。音声案内もある。角を曲がる度にチャイムで警告を発してくれる。これで着かないのはどうかしている。いや、どうかしていたって着いてしまうのだった。それがグーグルマップだ。素晴らしきグーグルマップ。グーグルマップを讃えよ。グーグルマップさえあれば、私に行けない場所はない。だがなぜだろう。そうして目的地にたどり着く度に、自分が駄目になっている気がしてひどく落ち込むのだ。

■頼っているからだ。テクノロジーに頼りきっている。機械の力を借りなければ道を歩くことも出来ない私。人間としての能力の退行。まるでディックや星新一の小説のようだ。機械文明の発達と反比例して、衰えゆく人類。機械の叛乱。エヌ氏は私だ。だがちょっと待って欲しい。例えば、もともと暗算の得意だった者が、電卓を使ううち、かつては頭の中で出来た計算ができなくなってしまったとか、日々パソコンで文章を入力するうちに簡単な漢字も書けなくなってしまったとか、それならハナシは分かる。間違いなく、だめになっている。機械に頼ることで、かつてあったはずの己の能力が失われたとき、人は初めて、だめになったなあ、と落ち込んでもいいはずだ。

■だが私はもともと、道に迷わない能力を持ち合わせていたのではない。機械に頼るうち、地図が読めなくなったわけでもない。もともと読めないのだ。機械のおかげで失われた能力など、ありはしない。単純に無能が補われた。得たものしかない。マイナスはないのだ。なのに、落ち込む。機械にナビゲートされて道を行く己を哀れんでいる。分不相応な落ち込みだ。おごりである。グーグルマップの角に頭をぶつけて死ぬがいい。

■中学校に入ったくらいの頃から、私は将来ものを書く人間になるのだろうと、何の根拠もなく思っていた。勿論、そんなこと誰にも言えなかったけれど、思っていた。だからといってそのために何かをしたということもない。ただ、あるとき、偶然から芝居を始め、誰も書く者がいなかったという理由から戯曲に手をつけ、初めからするすると書くことが出来たために、錯覚してしまったのだ。私は、書ける人間なのだ、と。

■「薔薇とダイヤモンド」が終わってからの、この2年間。芝居を離れている間に、薦めてくれる人もいたので小説を書いてみようと思った。何も書けなかった。一行どころか、一単語、一文字も書けなかった。書けなくなった!大変だ!と思ったが、それはそもそも大変な思い違いであった。そもそも、私は書ける人間などではなかった。ただ、戯曲という形式が、私に書かせてくれていたに過ぎない。私にそもそも書く能力はない。グーグルマップがあって初めて道を歩ける人間であるように、戯曲というフォーマットがあって初めて書ける人間だったのだ。戯曲の角に頭をぶつけなければならない。そう思って、しこたまぶつけたら、次の芝居の台本が書けていた。

■そんなわけで、架空畳をやります。台本が書けてしまったので。そう、『血と暴力の星』は既に完本している。ただ、生まれて初めて、稽古をしながらではなく全編を書ききったので、放り込むだけ放り込んでしまった。原稿用紙換算で240枚。文字数にして6万6千文字を超えた。上演時間は、2時間半に迫るだろう。刈り込まなくてはいけない。そのためには、稽古だ。いや、その前に人を集めてまず読み合わせをしよう。そこで発見したことを参考にして、カットしつつ第2稿を書く。なにせ上演は1月末。時間はある。時間をかけることに意味がある、そんな舞台になる。

■10年以上、毎年なにかしら関わっていた芝居に、一切触れることのなかったこの2年間で分かったことがある。私が芝居をしなくても誰も困らない。だが私が困る。すべては自分のためだ。自分のための創作。自分のための表現。それを人に見せる、しかも金を取って。それは裸になるということ。表現する覚悟としての、裸。「誰かのために」「何かのために」などと甘えた上着は必要ない。

■などと意気込んでも、しょせんだめになってゆく私である。謙虚に書く。道草もする。

小野寺邦彦


#083 夏のレコード 2013.09.21.SAT


■久しぶりに、アナログ盤レコードで新譜を買ったのだった。ランタンパレードのかわいい7インチ。 深夜、古いナカミチのプレイヤーを回して流れる音楽を聞きながら、常盤新平の古いエッセイを読んだりぼんやりしたり。

■音楽がデジタル・データで配信される時代になり、 かえってアナログ・レコードの価値も見直され、アナログ盤が扱われる機会も増えた。 いいことだ。どんな形であろうとも音楽は、音楽。 レコードで、CDで、聞きたい曲があるように、 デジタルデータでなくては意味がない、そんな楽曲だってあるだろう。山ほどあるはずだ。 楽曲ごとにこれはCDで、これはデータで、とリリースする媒体が変わったっていい。 1000席の大劇場で観たい大作もあれば、50人ですし詰めの小劇場で上演してこそ価値のある芝居だってある。 媒体のサイズに作品を合わせるのではなく、作品のサイズにもっともふさわしい媒体を選択すること。 そこに経済という考え方はない。

■次の舞台では、西暦1999年という時代が重要なモチーフのひとつとなる。 それにちなんで客入れの音楽を、当時私が聞いていたものばかりにしてみたらどうかと、フと思いついた。 1999年。私は高校生で、どのようにして音楽を聴いていたのかといえば何とカセットテープである。 もちろん、世間的にはMDが全盛。だが私が持っていたのはaiwaの「カセットボーイ」。 憧れのSONYメタルマスターは一本2000円もした。 その虎の子のテープ、片面60分に隙間なくカッキリ60分ぶん、曲を収めることにすべてをかけていた。 選曲、曲順、曲間の時間までをノートに書き込み、日々熟考。いざ録音となれば指先一つの操作に全神経を集中。 フェード・アウトで終わる曲を、カットするその瞬間の見極め。テープが完成すればインデックス作成だ。 初期はミリペンでレタリング。後期にはテプラで活字を打ち出して印字していた。そういう時代。

■私は、編集することが好きである。 自分の創作のフィールドに、舞台という、時間の制約が非常に強いジャンルを選んだこともそれと無関係ではない。 好きなものを好きなだけ幾らでも自由に入れ放題、は趣味ではない。 ある制約の中に、収めてゆくこと。詰め込むこと。はみ出すもの。捨てるもの。拾うもの。必要なものを捨ててみる。無駄なのに入れる。 選択こそが快楽であり愉悦だ。そのすべては稽古場にある。

■けれどまあ、その客入れのアイディアは没にした。 ちょっとね。実際に聞いてみたら何か違った。曲はいいんだ。もっといい形があるはずだ。

■芝居を観た人から、上演映像をDVDなどにして販売しては、と薦められることがある 。想いはイロイロとあるのだが、問題は劇中に使っている音楽の権利的な処理である。 芝居で既存の楽曲を使う際、上演に際しての権利の処理は行うが、ソフトとして販売するとなると、 それはまた全く別の契約が必要となる。 主に金銭的な問題から、当面はちょっと無理だろう。 では既存の曲を使わずオリジナルでいくとか、フリーの楽曲を使っては、などと一瞬考えるが、ダメだ。 DVDを作るために芝居を上演するわけではない。当たり前だ。 この曲を使いたいけど、DVDにできなくなるからダメだ、とか、本末転倒も甚だしい。 まるで意味が分からないではないか。だからナマで観て下さい。 自分の部屋で好きな時間に楽しむもの以外にも娯楽はある。不便、不自由、不親切。そこに演劇の可能性がある。

■しかしまあ、小劇場の世界は音楽の二次使用に関しては相当にブラックだ。 みな、勝手に使っている。 少なくとも上演するときに曲を流すことに関しては、そんなに特別な手続きが必要なわけでもない。 でも、それを怠る。どうせバレない。そこがだめだ。 誰も見ていないことが前提の表現。内輪の世界。 じゃあお前の書いた芝居を勝手に上演してやろうか。ふざけるな。誰がそんなことをしてやるものか。こっちからお断りである。

■さて夏は終わった。たった一つの曲を聴いているうちに、季節が変わってしまう。 夏の本体は、夏に入る直前のワクワクする時期にすべてあるのであって、実際に夏になってしまえば、もうただ過ぎてゆくだけである。近づくほど、遠ざかる夏。 レコードを聞きながら、まどろんでばかりの日々。

小野寺邦彦


#084 ゆっくり消える 2013.10.28.MON


■電車で化粧をする女性を、向かいの席からじっくりと鑑賞する。

■女性が化粧をする過程を眺めるのは、ハッキリ言って好きである。だがまあ、あまり好んで見せてくれる人はいない。そういったワケで電車ではバンバン化粧をして欲しい。こちらも遠慮なくバンバン鑑賞する。

■公共の場での化粧に、はじめやや緊張気味であった彼女も、ファンデーション、コンシーラー、チーク、リップ、と進むうち、自身の化粧行為に没入し集中力を増してゆく。そのクライマックスに登場するのがマスカラだ。何といってもマスカラである。マスカラを塗るため、カッ!と両目が見開かれた瞬間、同時に彼女の鼻の下はこれでもかとばかりに伸びている。入念に。丹念に。手鏡を覗き込み、念入りなアイメイクの施術中、その鼻の下は伸びて伸びて伸びっきている。忘我。この世界で、アイメイク中の一瞬にのみ存在する表情。魅力的にデコレートされゆく瞳と同時に伸びろ、鼻の下。どこまでも伸びて伸びてゆけ。

■サイトを作り直し2年ぶりに再開したジュラ記だが、問題もある。以前はBLOGGERで書いていたのだが、放置していたあいだにログインするためのID、パスワード、登録していたメールアドレスまで何もかも忘れてしまっていたのだった。おかげで削除することができずにいる。さらにいえば、そのずっと前、テストのつもりで当時のスタッフに作って貰ったプロトタイプ版『ジュラ記』も、まだWEB上には残っているのである。これは私が管理者ではなかった為、その当時のスタッフと連絡が取れない今とはなってはモウどうしようもない。こうしてインターネット上には3つの『ジュラ記』が存在しているのだった。

■個人サイトやブログ、ツイッターやフェイスブックなどのSNSアカウント、メールの履歴等々。ユーザーの死後もウェブ上に残るこれらデータの扱いをめぐる問題は、この先深刻さを増すだろう。かつてネット黎明の時代には、本人の死後も残るデータ、という響きには、何やらロマンの香りもあった。だが今やネットは現実の延長であり、ログは生活の痕跡に過ぎない。近い将来、依頼者の履歴を検索し、全ての痕跡をウェブ上から抹消するサービスといったものが現れるのではないか。終わり方だ。全ての問題は、その終わり方にある。

■フェードアウトで終わる音楽が、昔から好きではなかった。なぜジャン!とキッチリ終わらないのか。曲の終わり方を考える際、どのような必然性でもってフェードアウトが選択されるのか。フェードアウトでなければ表現できない音楽の「終わり」とは何だろう。100年ほどの昔。それは録音という科学技術の発達によってもたらされた、新しい表現であったはずだ。そして時間を経て今日まで生き残った。つまり音楽家とっては、実にしっくりくる何かが、そこにはあるのだ。だが私には分からない。

■私の芝居はいつだって支離滅裂だが、終わり方だけはハッキリしている。それはまるきりデタラメな芝居の中で、ほとんど唯一様式的な要素である。なんとなく終わったり、客電がついて初めて終わったことがわかるような幕引きだけはしない。物語は嘘であり、決して何かの真実ではない。終幕を現実に委ね、溶け込ませるように終わらせることは出来ない。芝居は終わるが、現実は続いてゆく。その虚実の境界をキッチリとつけること。だからこそ、劇場を出たあとの現実の風景を、ホンの少しだけ変えることが出来るのだと、青臭くも考えている。日常は変わらない。日常の見え方だけが変わる。たまに鼻で笑われたりもする。

■さて少々前のことになってしまったが、14日には、何人かに集まってもらい台本の読み合わせをした。自分の書いたセリフを人に読んで貰える喜び。何度芝居を作っても、変わらず震える瞬間である。よくもマア俺なんかが書いたセリフをなぁ。ありがてぇ。やっぱり稽古だ。稽古しかないよ。全てアタマだけで考えたセリフの数々はやはり冗長だったし、くどかった。長すぎたね、やはり。一セットの応酬で十分に通じているセリフを、2回3回と繰り返してしまっている。そこんところの説得力の加減ー充分なのか、足りないのかーが一人で書いているとわからなくなるのだな。いらない冗長は削り、必要な冗長は残す。ガリガリと削り、書き直し、新たな冗長を足してゆく。書くことで、また新しいアイディアが出る。要素は増やし、分量は減らす。グツグツと煮詰まり、結晶が残る。少しだけ、また余分なものを入れたくなる。

■『血と暴力の星』は企まずして群像劇になった。書いていて半ばを過ぎた頃、この物語には中心がないことに気づいた。というより、中心が多すぎる。私は考えた。このいくつかの中心を一つのエピソードに束ねて大きな物語として収束させるか、それとも全てを個別に拡大して、いくつもの渦を同時に展開させるか。私は後者を選択した。新しい「終わり方」が作れるかもしれないと思った。たった一つの結末にむかって、エピソードを束ねてゆくその手管に、私自身飽きてきてもいた。あらゆる要素が、中心に向かって収束してゆくのではなく、中心から始まった物語が、方々へ拡散してゆくイメージ。中心から離れ、拡散し、遠い場所でまた集まる。そしてまたそこから離れてゆき、やがて消えてゆく。それこそが、私にとってのフェードアウトの方法になるのかも知れない。グーグルマップも使わずに迷い込んだ道で、偶然再び出会い、そして分かれることができるのか?うまくいくかは分からない。だが模索する。その過程自体を舞台にする。それが道草だ。たまに座り込む。途方にも暮れる。

■ところで毎度のことだが、この時期になってまだ半分しか役者が決まっていないのだった。わはは。どーすんだホントに。募集はね、したくないんだ(まあしても集まるとは思えない)。何かの縁で出会いたい。偶然、発見したい。と、いうわけで非公式に募集してます。何らかの方法で、私と出会ってくれる魅力的な人。偶然お会いしましょう。

小野寺邦彦


#085 彼のアフォリズム 2013.11.02.SAT


■高円寺の薄暗い店で、革ジャンを着込んだ中年男声が、金髪の若者に曰く

「最近のパンクはね!なってないね!俺らの頃はね!もっと、こう、パンクだったもんだけどね!ダメだね!近頃の!若い奴らのパンクは!全然!!」

世界で最もパンクじゃない言葉がコレだ。

■若い頃に反権威・反権力を標榜したような人物ほど、功なり名を遂げある一定の地位を得ると、極めて権威的な態度を取る人間になる、といったことがあるのではないか。アノ人とか、ソノ人とか。要はルサンチマンなのである。権威に楯突いているのではない。自分が(若くて未熟な故に)受け入れられないという事実に、拗ねているわけだ。だから一度自分が受け入れられれば、その世界の価値観を維持するために、また異なる価値観を持ち込もうとする者を徹底的に排除しにかかる。そして言うのだ。「俺の若い頃は」と。

■ロックを声高に語る人が苦手である。ビートルズ。ビーチ・ボーイズ。ドアーズ。チャック・ベリー。ボブ・ディラン。ニール・ヤング。 レッドツェッペリン。デヴィット・ボウイ。イギー・ポップ。 ラモーンズ。トム・ウェイツ。ザ・フー。セックスピストルズ。クラッシュ。ブルース・スプリングスティーン。 ロックはいい。ロックンロールは好きだ。だが、ロックを語る人はダメである。何か事あるごとに彼らはいうのだ。

「それはロックじゃないよ」

ロックを語る者は、権威的だ。ロックか非ロックかで人を区別して回る。弾劾する。そのくせ、何がロックで何がロックではないのか、どのような基準が存在するのか、答える者はいない。ないのだ。そんな基準は存在しない。全てはフィーリングで決定される。なんかロックっぽい。そういったムード。雰囲気。つまりはテメェの胸先三寸、言ったもん勝ちなのである。存在しない基準によって人を選別する、それを私は暴力だと思う。

遅刻はロックだが、欠席はロックではない。ラーメンはロックだが、カレーはロックではない。不倫はロックだが、浮気はロックではない。自転車はロックだが、ローラースケートはロックではない。賃貸はロックだがローンはロックではない。コーヒーはロックだが、紅茶はロックではない。密林はロックだが草原はロックではない。病気はロックだが、病院はロックではない。水はロックだがお湯はロックではない。銭湯はロックだがサウナはロックではない。かかとはロックだがつま先はロックではない。バリはロックだがハワイはロックではない。鉛筆はロックだがサインペンはロックではない。着ぐるみはロックだが、ぬいぐるみはロックではない。バスはロックだがタクシーはロックではない。

何とでも言えるのだ。しかも、どれもが何となくそれっぽい。もっと端的にもいける。

洗濯はロックだ。ハイヒールはロックだ。ねじ締めはロックだ。皿洗いはロックだ。旅行はロックだ。布団干しはロックだ。潜水はロックだ。木登りはロックだ。古書店はロックだ。屋上はロックだ。便器はロックだ。雑誌はロックだ。コンビニはロックだ。虫眼鏡はロックだ。妊娠はロックだ。弁当はロックだ。一万円はロックだ。散髪はロックだ。原稿用紙はロックだ。柱時計はロックだ。田植えはロックだ。石鹸はロックだ。身体測定はロックだ。裁判はロックだ。正月はロックだ。ふんどしはロックだ。たこあげはロックだ。 割り箸はロックだ。進路説明会はロックだ。ガスボンベはロックだ。宇都宮はロックだ。トルクレンチはロックだ。結婚記念日はロックだ。改札機はロックだ。

■識者には知られたいわゆる『格闘技問題』がある。世のあらゆる事象は格闘技に喩えられる。「野球は格闘技です」「経済はいわば格闘技です」「プログラミングは、まあ格闘技ですからねぇ」では格闘技はなんだ?格闘技は野球か?格闘技は経済か?「格闘技はプログラミングですよ」。なにがですよだ。 ロックも同じだ。良くいえば、そのコトバ自体がどんなモノでも内包して飲み込む懐の深さを備えている。単純にいえばアイマイなのだ。だからこその人気だ。遅刻はロックであっても、ロックとは遅刻のことではない。言葉の「格」が違う。不等号。だから同じ「格」を持つ「ロック」と「格闘技」の間には完全なる等号式が成立する。すなわち、

ロックは格闘技である
格闘技はロックである


どちらもいける。釣り合っているのだ。釣り合い。これが重要だ。代入されるコトバの格が釣り合っていること。ではロックと同等の格でありながら相反するイメージを持つこんなコトバを並べて化学変化を促してみてはどうか。

演歌はロックである。

妙な説得力がありはしないか。そうか、演歌はロックか。これが飲み込めたのなら、あと一息である。そう、すなわち

ロックは、ロックではない。

まったくもってロックなんぞロックではない。ロック・コンサートでロックを演奏するほど、非ロック的な行為はない。予定調和。形骸化。様式への無自覚なおもねり。まるでダメだ。やはり演歌だろう。ロック・コンサートで演歌を歌う。これがロックでなくてなんだ。そう、今、演歌こそがロックである。

■何とでも言えるコトバを使って、何かを言い当てたような顔をするのは、ただのバカであるという教訓。

■「こんなの芝居じゃない」そう口にする者の上唇は歪んでいる。私が経験から得た事実である。旗揚げ以来、腐る程浴びたコトバだ。つまりそれは「気に食わない」ということだろう。それはいい。仕方がない。だがそれは批評ではない。たかが個人の好みのハナシに過ぎないのに、あたかも本質的な問題を言い当てたかのような顔をして悦に入っているだけのことだ。

「こんなの映画じゃない」
「こんなの音楽じゃない」
「こんなの建築じゃない」
「こんなの料理じゃない」
「こんなのSFじゃない」


その、どこにも言葉などありはしない。たったの一言でズバリと斬ってやった。その快感にただ酔っている。実際は、たったの一言で自身のバカを証明したに過ぎない。あとは「本物」「偽物」というのも、よくあるね。こいつは本物だ、とか、こんなの偽物だよ、とか。知ったことかと言いたい。作りたいものを作りたいように作り、それで「偽物」と言われるのなら仕方がない。本物とか偽物とか、そんな場所に創作の基準を置いてはいない。っていうかお前は何なんだよ。鑑定師か。鑑定するお前の目が「本物」かどうか、どう証明するのだ。そう詰め寄れば決まって言うのだ。「個人の感想です」。じゃあ初めからそんなに大層なコトバを使うな。あるモノを認めたくない、貶めたい、気に食わない。そう感じるときが勿論、私にだってある。そういう場合は出来る限り小さなコトバを使うべきだ。「俺は、気に食わねぇ」。それで充分だ。もしそれを個人の感想に留まらせず、大きなコトバを使って「正しさ」にまで導こうというのなら、そこから先は戦争である。そして私は、戦争がとても苦手なのだった。

■などと虚勢を張ってウダウダ書いてはいるが、実際にはどんなコトバであっても傷つく。ズバリと正鵠を射られたマットウな批判にも、テキトーに投げつけられたテキトーな戯言にも、等しく傷ついてしまう。例えどんなナマクラであっても、切りつけられる方にとって、それはやはり刃なのだ。浅くとも、傷は傷。キチンと斬られたらキチンと傷つき、テキトーに斬られればテキトーに傷つく。そのどちらの傷の治りが早いのか、一概には言えない。だから、いつだって傷だらけだ。仕方のないことだ。刃を振り回す方ではなく、受けるほうを選んだ。人に嫌われないために作品をつくる、そんなことは出来ない。より率直に言えば、作品を作れるとは思えない。作品は、出来てしまうのだ。コントロール出来たことなど今まで一度もない。だからまあ、私はアマチュアだ。それをいいとも思ってはいない。未熟。技術不足。傷だらけなのも当たり前のことなのだった。それでも、作る。また傷が増える。って俺はマゾか。

■ま、そんな訳で感想は自由である。カネ払ってシロート芝居観てやったんだ好きなこと言わせろ、それは正論だ。けどまあ不思議なコトにこういうことを言う人は大抵、不思議な力でもってタダで観る人なんだよね。俺の知らない人間が、俺の芝居をタダで見てケチョンケチョンにけなして帰る。毎度訪れる、劇場の不思議である。

■肌寒さで目覚めた朝。なにせ11月だ。11月かぁ。年末じゃないか。どうかしている。まったくどういうことなんだ。

小野寺邦彦


#086 ダサさと向き合う 2013.11.09.SAT


■駅前にたむろしていた大学生女子の集団から聞こえてきた会話。

女1 「あのね、このコの彼氏って」
女2 「ヒッ!!言わないで!!!!お願い!!」
女1 「サークルに入ってるんだけど、そのサークルって」
女2 「マジで!ダメ!それだけは!!」
女1 「相撲部なんだよ!」
女2 「ギャー!!何で!何で言うの!ひどい!ギャー!!!
女1 「いいじゃん。別に。好きなんでしょ?」
女2 「そうなの!好きなの!でも!相撲部!彼氏が!相撲部って!!嫌なの!好きだけど、イヤ!相撲部!!ギャー!!

■好きな音楽、好きなデザイン、好きなファッション、そして好きな異性のタイプ。公に表明されるこれら「好み」は、自身の内部の吐露では決してなく、すべて外部へ向けたアピールだ。これが好きな私。こういう趣味の自分。世間へ向けた公式キャラクター「自分」としてのプロフィール。だが言うまでもなく、現実には相撲部のオトコを好きになったりする。全然タイプではないのに、好き。コレが好きな自分を認めるわけにはいかないのに、でも好き。言ってしまえば、ダサい自分を許容できるかどうか。十代では無理だろう。二十代でもけっこう厳しい。まあ、ダサさをそもそも自覚していない、ということも大いにあるが、ソレはむしろ年を経た後に効いてくる。布団の中でジタバタする。

■芝居のアンケートでよく書かれるコトバがある。

好きだけど、認めたくない。
認めたくないけど、好き。


内容は同じだが、明らかに異なる二種のニュアンスをもった感想が、必ずある。コレを好きな自分がイヤ、ということは少なくともスタイリッシュではない、人に勧められるモノではない、ということだろう。勧めて欲しいのに。私の芝居をよい、と言ってくれる、極めて数少ない人々は皆、決まって声を潜めながら言うのだ。潜めるな。潜めることはないだろう。浮かべろ、好評。沈め、悪評。よりによって悪評ばかりが天に舞う。というのはまあ、妄想だろう。

■芝居の作り方なんて全然分からない。カマトトではなく、本当に分からない(まあ、私の芝居を観た人はカマトトとは思わんだろう。観れば分かる。すごく分かってないのだ)。唯一、心がけていることといえば、作品に可能な限り自分のパーソナリティーを反映させるということである。平たくいえば芝居の全てを自分の趣味で埋める、ということだが、これには相当ヘヴィな面がある。そうだ。向き合わなければならないのだ。己のダサさと。それもみっちりと。

■稽古場で役者にセリフを言わせ、動きをつけ、音響・照明・美術・衣装などをマッチングした瞬間に露わになる、どうしようもない『ダサさ』。それを一度でも感じたことのない演出家はおるまい。それをどうするか。一般的にセンスがいいとされるもの、はやっているモノ、スタイリッシュなものに置き換えてゆくことは、比較的容易だ。そうやって上げてゆくのが芝居の「品質」なのかも知れない。本来ダサいとされる自分の感覚を、一般的なセンスに近づけて、すり合わせてゆくこと。大事なことだ。でも、それは私ではない。そこがダサくなければ、私の芝居である意味がない。己の中にある真実のダサさを見せることが出来なければ、ほかの重要な演出、大事なセリフだって借り物、ウソになってしまうのではないか。こういうセンスを持った人間だからこそ、こういうセリフを言う、こういう演出になる。ダサさと向き合う。私にとっては、それが演出だ。間違っているが、そうなのだ。

■作者のパーソナリティーが作品に反映されることを嫌う人も多い。ゴツゴツした部分がなく、楽しく観て後に何も残らない作品。勿論、あっていい。そういう作品も、等しく好きである。でも私には無理だ。作らないのではななく、作れない。そういう能力は皆無だ。よく、自分語りだといわれる。このブログもね。まったくその通り。ほかに売るものがない。私の芝居は、ドキュメンタリーである。分からないことを分からないまま、舞台にあげる。知りたいことを、答えがないままセリフにする。知りたいからだ。興味があるのだ。そうやって書いていく中で回答のようなものを見つければそれを書くし、見つからなければ、なぜ見つからないのか・分からないのかをセリフにする。そうやってしか、作れない。そういうものが、面白いと思っている。ダサいだろうか。どうなんだ。

■多くの人が、人をツッコむことに夢中だ。ニュースで、ネットで、ツイッターで。オレが突っ込むべき「ボケ」はいないかと監視している。意図せずして失態を演じてしまった人間は、舞台に引きずり出され、格好の「ボケ」としてツッコミの雨アラレ、集中砲火を受ける。ツッコミたいが、ツッコまれたくはない。つまりボケには需要があるわけだ。心おきなくボケよう。より大きな嘘。より大きなボケ。魂を削ってボケる。と、意気込む自分もまた滑稽なのだろう。無理解を怖れない。それだけが、よすがだ。

■かつて高校の文化祭で、コントを自作自演した。演目は『笑っていいとも最終回』。テレフォンショッキングのパロディーだ。友人Tがタモリ役で、私はゲスト役のミュージシャンを演じた。さんざん下らないバカを演じた最後に、

「お友達を紹介してください」

と切り出すタモリ。すると背後のスクリーンに映し出される、タモリの顔。そして私が言う。

「タモリさんです」
「えっ?」
「あなたです」

凍り付くタモリ。10秒の沈黙の後、暗転。誰一人笑わなかった。あれから15年経った。

■今週は、多くの人と会って話した。まだまだ話し足りない。ブログも書き足りない。いい加減にしろ。もっと短く書くべきだ。

小野寺邦彦


#087 畑を潰して建てた家 2013.11.13.WED


■終電で、阿佐ヶ谷から国立へ。文庫本に目を落としながら乗り込んだ車両で違和感に気づき、フと顔を上げると、私の他に乗客はたった一人。20代後半から30代アタマくらいの女性が座席の隅っこにポツンと座っているきりだ。終電である。他の車両には勿論、ギッシリと人が乗り込んでいるのである。しまった。今更くるりと踵を返して車両を移るというワケにもいかない。私はそういうコトが出来ない人間なのだった。しょーがない。モウ腹をくくるしかない。

■このケースでまず警戒すべきは、ゲロか喧嘩だ。だが車両の中には酸っぱい臭いもなく、女性の額から血が流れているということもない。まさかと思ったが、女性専用車両というワケでもない。ベルが鳴り、いよいよ電車が発車する。ガラガラの車内で立っているのも不自然なので、なるべく彼女から遠い位置に座り、コッソリと観察することにする。女性は深く俯き、目を瞑っている。ギュッと腕組みをし、一見、眠っているようだが、組んだ腕の中でしかし小刻みに人差し指が動いていることが分かる。警戒されているのだろうか。だがそれもスジが違うハナシだ。怖いのは俺だ。そのハズだろう。終始、ピシリとした緊張感が車内を支配して息苦しい。苦しいのだがしかし、ナニが起こるということもなく、いつしか電車は速度を落とし、荻窪駅が近づいてくる。ああ、次の駅でこのドアが開けば、多少は不審がりつつも、ヒトビトが乗り込んでくるだろう。旅は終わりだ。そう思った。だが恐るべきことが起きる。

■電車がホームに到着し、ドアが開いた瞬間!彼女は唐突にガバと跳ね起きたかと思うと、一目散に車両から走り去った。アッケに取られながらその姿を目で追うと、なんと隣の車両に移ったではないか!!な、なんだ?どういうことなのだ!?ボウゼンとしていると、当然にも、数人の人々が、ホームから車両に乗り込んできた。だが、ガラガラの車両の中にいるのは真っ青な顔をした私一人。しかも今、飛び出していった女性の剣幕をバッチリ目撃されている。瞬時に異様さに気づいた彼らは、サっと車両を降りてしまった。

■昔、こんな小説を読んだ。その部屋からは、次に入ってきた人間と交代することでしか出ることが出来ない。生きて出たくば、次のイケニエを探せー。そうか。そうだったのだ。きっと彼女も犠牲者だったのだ。そこへ私がノコノコと入ってきた。気づいた時にはもう遅い。私の身代わりはいないのだ。カゴの鳥。腹の中。哀れな贄。こんな小汚い男がたった独り居座る車両に、これから先、誰が乗り込んでくるものか。独りだ。喩えようもなく、今。国立はまだはるか遠く、私は終電に捕らわれの虜になってしまったのだった。

■前回(
#86)「好み」について書いたら、何通かのメールを貰った。どれもが面白い内容だった。ツイッターやその他、レスポンスが容易なツールがいくらでもある昨今、わざわざメールを送ってくれる、というのは凄いことだ。ありがとうございます。

■ところでいわゆる異性に対する好みのタイプを聞いて、「特にないよ」と答える人のほうが、実際には圧倒的にこだわりが深いと感じるのは私だけだろうか。「これこれこういう人が好きで~」と語る人は、そういうタイプではない人ともこだわりなく付き合うが、「特にない」派はもの凄く慎重に相手を選ぶ印象がある。大学時代、モテそうなのに、一度も女性と付き合えたことがないと嘆く男が何人かいて、どういう女性が好みなの?と聞くと、決まって「特にない」と答えたものだった。ホントか?きっと「特にない」は「なんでもいい」ではないのだな。まぁ、ただの印象です。裏付けはない。暇なときにでも考えよう。っていつも暇なんだ、俺は。

■毎日シコシコと台本を直している。本当に薄皮を剥ぐように一つひとつの台詞を文字単位で削ってゆく。台本を削る、という作業は初めてだが、すっかりハマっってしまった。必要な部分を残し、余計な箇所を削るのはもちろん基本だが、そればかりではダメだ。大事な部分をあえてバッサリ切って、テキトーな部分だけを残したりしている。すると台詞が生まれ変わる。意味合いは同じでも、全く異なったニュアンスに再生される。何度も何度も見直して、何度も何度も直す。そして気づいたのだ。セリフを削る、ということは演出を施す、ということなのだ。例えば、次のセリフ。

『まだよ、まだまだ!葦の根の如く複雑に入り組んだ歴史の地層から、下着の化石を発掘しなさい』

このアタマの「まだよ、まだまだ」を実際に削った。セリフで言わなくても、「まだ」という意味合いで喋れば、「まだ」のニュアンスは伝えることができるからだ。つまり、演出だ。さらに、例えばこのセリフを私でない者が仮に演出した場合には、「まだ」以外の意味を与えることも出来る。これだ。これだったのだ。戯曲が自分の手を離れて、ホンの少しだけ自由になる気がする。こんなこと、当たり前なのだろう。言うまでもないコトなのだろう。だが私は知らなかった。それを自分で知った。まだまだ知ることがある。知ることで忘れるもの、失うものもあるだろう。だが、知るべきだ。トコトン知るべきなのだ。

■代々木上原にある、とある店でボンヤリとしていた。大学時代の同級生が姉と二人、姉妹でやっている店である。フと客が途切れた時間に交わされる姉妹の会話を、カウンターの片隅で聞くともなく聞いていた。

「あったでしょ、昔。あそこに」
「どこ」
「あの、向かいの」
「大きな家?」
「畑だったでしょ。昔」
「そうね。畑を潰して建てた家ね」
「畑だったよね」
「畑だった」

思わず吹き出してしまった。堪えきれずに大笑いした。エウレカ!そうだ。そうなのだ。今、目に見える形でそこにあるのは、唯の家である。だが、その歴史を知るものにとっては単なる家ではない。畑を潰して建てた家だ。家は、歴史の上に建っている。これが物語だ。マッサラな更地に突然何かが現れるわけではないのだ。同じように、たった一行、一言のセリフにも歴史がある。ただのセリフではない。元あったセリフが削られて、今の形になったのだ。口に出した瞬間消えてなくなるセリフのその地下にみっしりと歴史が埋まっている。熟考を重ね、丹念に削りだした言葉を一秒間に一万語の速度で惜しげもなく投げ捨てる、そこににこそ価値がある。もっと練ろう。もっと削ろう。一語に執着すればするほど、それを手放す瞬間の価値が果てしもなく高まってゆく。捨てるために、作り込む。『大事なものだけ、失おう』つまりそういうことだ。

■「6月のパルティータ」をずっと聴いている。夜中、ステレオで音を絞りながら流しっぱなしにして、フと気が向くとヘッドフォンで聴く。音楽は恐ろしい。恐ろしい力がある。いとも簡単に身を委ねてしまう。音楽を聞きながら道を歩くだけで、誰もが物語の主人公になる。なった気分。それはただの気分だ。けれど最高の気分。抗い難い魅力に抗ったり、身を委ねたり。3分に一度ずつ、寝たり覚めたりを繰り返す。まんまドラッグだ。普段、ほとんど音楽を聴かない。だからたまにヤると効いてしまうんだな。クラクラする。泣いてしまいそうになる。音楽は恐ろしい。なんて恐ろしいんだ。

小野寺邦彦


#088 あらかじめ失われた恋人たち 2013.11.28.THU


■高円寺からの帰りの電車の中。携帯電話のメールを無心で打つ、20代半ばくらいの女性を見た。スマートフォンではなく、いわゆるガラケー。そのタイピングの速度、タッチの優雅さ。相当、年期が入っているのだろう。親指一本を自在に操り、息を吸って吐くように、カカカカカカと淀みなく刻まれる打鍵音に聞き入るうち、いつしか私は涙ぐんでいたのだった。

■小学生の頃。ファミコンのあるアクションゲーム、ってまあ『ロックマン4』なのだが、もの凄くうまい同級生がいた。彼は誕生日に買って貰ったというそのゲームを毎日しゃぶるようにプレイし続け、半年も経ったその時点では、目を瞑ってでも全ステージノーミスでクリアできるほどの腕前に達していたのだった。放課後、彼の部屋へと遊びにいくと披露されるその神業を見る度、私は決まって胸が締め付けられ、涙が滲み、家に帰りたくなった。時間を費やし、没頭し、手に入れた技術がすばらしくあればあるほど、その必要性が紙屑のように顧みられなくなる日が来ることを想って、たまらない気持ちになったのだった。

■技術は時間が形になった、そのものだ。毎日少しずつ少しずつ積み上げた目には見えぬ時間の束が、やがて技術となって顕在する。かと思えば、ある瞬間価値を失ったが最後『固めるテンプル』よろしくポイと丸ごと捨てられる。それが伝統工芸や芸事なら、いい。いずれ消え去る宿命ではあっても、それは惜しまれ、記憶されるだろう。だが間違っても『ケータイメールを淀みなく打つ技術』や『ロックマン4の腕前』は保護もされなければ惜しまれもしない。費やされた時間・技術の質は同等であってもだ。

■昔、コピー機などまだなく、ガリバン刷りの時代。誰よりも早く正確にガリを切った、鉄筆の名人。アジビラやタテカンの文字を書かせれば右に出るものはいなかった活動家。初めから失われ、忘れらることが前提の技術に、図らずも時間を才能を費やす人々。その姿が哀しくもたまらなく愛おしい。だから芝居なんぞに惹かれるのだろうか。何日もかけて、のたうち回りながら書いたセリフも舞台の上では1秒で吐き捨てられる。セリフが消え、消費される、そのすべての瞬間が愛おしい。そう、吐き捨てるべきなのだ。大事にセリフを読み、そっと舞台に置くような演技は、私の芝居にはいらない。一つのセリフを投げ捨てた瞬間には、もう次のセリフの首根っこを掴んでいなくてはならない。コトバの大量殺人鬼。終演後の舞台の上には累々たるヌケガラのセリフたち。・・・って、なんか格好つけて書いてしまった。つい大きなことを言ってしまうんだなあ。夜は恥ずかしい。気をつけよう。でも、ま、恥をかくためのブログだ。消しはしない。たまに読み返して赤面し、反省する。

■この間から、同じ事ばかり書いている。同じ事ばかり考えているからだ。同じ台本を6ヶ月もいじっているせいなのだった。

■というわけで、11月も終わりだ。来月からは、ゆるゆるとではあるが、いよいよ稽古が始まる。今年中にあと何冊、本が読めるか。全盛時には及ぶべくもないが、読書量は微増傾向にある。1日に1冊読み切れれば上出来といった案配。読書はもちろん、趣味だ。何かの役に立つ訳でも、人に威張れる訳でもない。特に私の場合はそうである。娯楽であり、愉悦。あくまで趣味。どこまでいっても趣味。だがときとして、趣味すらままならないこともある。文字は目の表面を上滑るばかりで、するするとすり抜けて体に入ってこない。一冊読み終えた瞬間には何が書いてあったのか忘れている。そんなこともある。今は、大丈夫。本が読めるうちは、まだ大丈夫と思う。

小野寺邦彦


#089 光のない 2013.12.06.FRI


■駅前の本屋でフと見た文庫本のオビに次のような文句が書かれていた。

今、日本人に一番読んで欲しい本ー著者ー

そりゃ、そうだろう。何せ作者だからな。テメェの本なら読んで貰いたくて当然だ。

■歌謡曲の歌詞なんかでよく「人は~なものだから」とか「誰もが~だから」とかいうコトバを使うが、アレをやめさせろ。誰もがって誰だ。私は違う。お前の個人的な問題を勝手に人類規模にまで拡大させるなよ。失恋して涙が出れば

「人は弱い生き物だから」

夢に向かって歩き出すと

「誰もが翼をもっているはずだから」

弱いのは人ではなく貴様だ。俺に翼はないです。他人を巻き込むなバカ。個人の問題は人類全体の問題、ってこれがセカイ系か。ちゃんと「私は」って言いなさい。もしくは

「人はおなかが空く生き物なのだから」

とか

「誰もが臓器をもっているはずだから」

なら問題ないです。大きなコトバを主語にして、問題のツケを自分以外の者にもコッソリ背負わせる行為は卑しい。卑しくても何でもいいから、人類全体で私一人の問題を背負ってくれないと困る!ってとこまで開き直るなら、むしろ立派だけどね。立派に卑しい。尊敬します。

■つまり、主語は重要だ。主語を侮るな。セリフを書いていて苦しくなってくると、つい大きな主語を使ってしまう。特に芝居の後半。「人は」「誰もが」。つい、書きたくなるモノなのだ。だがそれはゴマカシだ。強いセリフは孤独でなければならない。そのセリフ一つで、責任を負わなくてはならない。何かに寄りかかった安全なセリフで、客席を射抜くことはできない。私は観客と友達になりたい訳ではない。突き放し、突き放されたい。それでもその先に何があるのか。何もないのか。まだそこまで強いセリフが書けたことはないけど。だからなぁ。ケッ、何が今一番日本人に買って欲しい、だ。おためごかすな。「今、私の生活のために一番買ってほしい本」って書いてあったら即、買う。

■月曜の夜。新宿の眼科画廊で南さんの出ている芝居を観る。懐かしい雰囲気の、ナンセンス・コメディー。90年代に戻ったような気分。始まって5分くらいで、高校生の頃に観た猫ニャーを思い出していた。猫ニャーの芝居には本物のヤギが出てきたが、今回の芝居にはカニが出てきた。一瞬、膨大な量の生きたカニが客席にブチ負けられるという展開を予想したが、そんな演出はなかった。やはり今は2013年なのであって、決して1996年ではないのだった。丁寧に積み上げられた、生真面目な笑いだった。笑いを作る多くの人が、とても真面目だ。真面目にふざけようとする。頭が下がる。何にせよ楽しそうで、何よりであった。

■水曜は池袋で『悪の法則』を観てから芸劇『光のない(プロローグ?)』。イェリネクである。難解なのである。難解なテキストを難解なまま、難解なモノとして放り投げる演出。何せ難解だ。当たり前だ、だって難解なんだから。舞踏を思わせる俳優の動き、繰り返され読み換えられるテキスト、死者という見立て、それら要素を従えて劇全体を支配する難解なるムード。その全てが正しく前衛的であり、スタンダードなまでにアングラであった。ジャンルとしての「前衛」、教科書通りのアングラ、そのアップグレード。恐るべき先祖還り。感動に震え体温が上がる瞬間と、余りの眠たさに意識が遠のく瞬間が同じくらいあった。上演が進むにつれて、客席のそこかしこでパンフレットを取り落とす音。握りしめたケイタイを床に落とす音。眠りに落とされゆく客席。遠のく意識のその奥に、死者の言葉、繰り返されるセリフがリフレインで聞こえてくる。終わってみれば75分、芝居を見たという気がしなかった。気を失うその度に引きずり起こされる。眠り損なった、そんな気分。近頃珍しい観劇体験だった。『ヒネミの商人』も楽しみだ。

■その後友人と合流し、一杯ひっかけた後の帰り道。駅に向かってフラフラと歩いていると、すれ違った女性が、ケータイ電話に向かってややうんざりした口調で言ったのだった。

「また、ブティック?」

ブティック…。って何だったか。懐かしい響き。ブティック、ブティック…。もちろんググれば一瞬だ。手元の端末で検索一発かければ、得られぬ知識などない時代。だからこそ、とっさには思い出せぬそのコトバをアタマの中で転がし、もったいつけて、しばし弄ぶ。食後、歯と歯の間に挟まった一筋の繊維質を、楊枝を使う前に舌で突っつき奮闘するあの感覚。ただ、未知の単語を端末に打ち込み検索にかけるときの味気なさは、いよいよ楊枝をブツリと歯間に突き立て歯をくじる快感とはほど遠い。情報にアクセスし、引き出す。その行為自体への興奮は、既にない。

■サラダせんべいのサラダとは何をもってサラダなのか、幼児期以来私は考え続けている。クドいようだが、調べればわかる。一瞬で分かるのだ。だが私はこれまで調べなかったし、これからも調べることはないだろう。いつでも答えが分かる、ということは、いつまで考えていてもいいということだ。永遠のサラダせんべい問題。二十数年をかけてこれまでに十通り以上の回答を私は捻りだしたし、ハッキリ言ってマァこれが答えだろうという見当もほぼついてしまってもいる。だが、まだ考える。退屈な映画や興味のもてない芝居をボンヤリと観ているとき、私がいつの間にか考えていることは、サラダせんべいの由来、その新案だ。

■しかし、それはそれとして「また、ブティック?」とは一体どういうことだ。たまにはカレー屋にしたらどうか。って、だからそれは何なのだ。

■今週はさまざまなトラブルがあった。表面上は穏やかだが、実際にはすごく混乱した気分で過ごした。混乱した気分で映画を観て、混乱した気分で観劇をし、混乱した気分で本を読んだ。混乱したままボンヤリし、混乱したまま寝た。落ち込んだし、荒れもした。そんな気持ちのままダラダラと書いたブログだ。ご覧のようにちゃんと混乱した内容になって、今、ちょっと満足だ。

小野寺邦彦


#090 手にあまる穴 2014.1.30.THU


■年末の深夜。阿佐ヶ谷の喫茶店で口論を始めたカップル。何度かの問答の末に、スックと立ち上がった彼女が

「前歯にものが挟まった様な言い方しないで!」

って、歯をイーッってしながら言った。

■そんなわけで「血と暴力の星」が全日程を終了してしまったのだった。危ぶまれていた集客も、エライもんで何とかなるもんである。大入りと言っても後ろ指差されないぐらいは入って頂きました。ここで全ステージ完売!超満員御礼!絶賛の嵐!って書くような人間に私はなりたくはないが、シアターグリーン(大)の(我々にとっては)広大な座席の荒野を8~9割方埋められたことは僥倖であった。特に3日目あたりからは当日券がバンバン売れて、ネットでの前日予約も膨れ上がった。当日券が売れるなんてことはこれまでほぼなかったことなので(ハハハ)驚いたのだが、たぶんポスター、イラストのおかげだろう。本先生に頼んで良かった。最高のイラスト。出演者の暗躍により下北、高円寺のヴィレッジヴァンガード(今表記が正しいがググった。ヴが2個もあった)にポスター掲出させて貰えたのもひとえにイラストのおかげです。ありがとうございました。

■ところで私は数の論理が苦手です。興行の主催者としての立場からは、そりゃモウ動員数を気にしないワケにはいかないし、実際、役者に嫌われるくらい、人を呼ぶように煩く言う。客席がギッシリ埋まった中で芝居をしたほうが気持ちがいいし、勿論お金はとても大事だ。それでも、根っこのところでは「動員数、動員数」と数ばかりを気にする姿勢には正直ピンとこない。こないじゃダメなんだろうけど。目の色変えるべきなんだろうけど。5年前。同じ劇場を初めて使わせて貰ったときには、お客が40人ってステージもあった。それで悲観的になったかというとそんなことはなく、その40人がたまらなく愛おしかった。集まった全員と話がしたかった。舞台も集中していい出来だった。本当は、お客が一人であってもありがたい。とてもありがたいのだ。一人だけでも「観逃した」「観たかった」と言って下さる方がいれば、その人のために上演したい。できないけれど。観に来てくれるひとりひとりを、席を埋めるマスとして扱うことはどうしても出来ない。多くが友人同士、知りあい同士で観劇に訪れる人々の中で一人、体を小さくして狭い客席に座って開演を待ってくれている、そんな人の背中を客席の後ろから、いつもボンヤリと眺めている。

■とまあ、まるで膨大な動員力を誇る人気劇団の憂鬱を気取ったかのような文章ですが、お分かりの通り、そんなことは全然ありません。ほんとに慎ましい数です。そんな人数でも、我々の手には余ってしまうというだけのことです。ま、架空畳ですから。ボチボチでいいんです。何とかやっていきます。どうぞ、劇場で話しかけてください。勿論、ボロクソの非難・罵倒も受け付けております。受け付けていなくてもやっては来るんですけど。無視することなく受け止めて、ガッツリと傷つこうと思います(このへんのことは、次のエントリーで詳しく書きます)。

■それにしても稽古が始まると途端に更新されなくなるノートだ。稽古中に発見したこと、分からないことを記していくことが目的のページなんだけど。そんな余裕はとてもないのだった。私のキャパシティーはミジンコだ。しかし書き留めておきたいことはあるので、しばらくダラダラと書いていく。書く事がなくなった頃には、次の舞台のお報せができればいいけれど。今は正真正銘、まったくの白紙です。前作「薔薇とダイヤモンド」から2年4ヶ月。全てを注ぎ込んだ「血と暴力の星」が終わって今、私はカラッポで、おまけにバラシが終わった日の晩から発熱し、数年ぶりの風邪をひいた。昼は微熱に酔いながら雑事をこなし、夜、気を失うように布団に倒れこむ。目が覚めても熱は引かず、体は空洞のまま。でも、大丈夫。カラッポの肉体にまたイチからいろいろ詰め込んで、必ず再生してみせます。立ち上がることは難しくない。立ち続けることが戦いです。今は、横たわります。
では、また。

小野寺邦彦


#091 海の生き物、陸の生き物 2014.2.02.SUN


■何かの折にフと思い出す。数年前、終電の中央線。へべれけに酔っ払った女子二人。

「ねぇ、彼氏欲しくない?」
「そりゃあ、喉から実が出るほど欲しいよっっ!!」

■熱が引かないままにグダグダと布団にいるのだった。早く働いてお金稼がないといけないけれど、布団の住人のうちに書いておくべきことを書いておく。イロイロあるのだけど、とりあえず今回の芝居への批判・非難に対して。私の芝居に対する批判もここ数作ではかなり定型化してきていて、それだけ問題が明らか&全然解決されてないってことなのだろうけども、ポジティブに考えれば作風が確立してきたともいえる。私は勿論、ポジティブな人間なのである。ゴクローさん、なのである。けれど真摯に批評・批判を下さる多くの方には敬意を評して、シドロモドロに弁解を試みる。この口調だと偉そうでヤなので、以下、変えます。

■頂いた幾多のご批判の中で、最も苛烈に糾弾されるのが『内容がない』というものでした。物語やテーマなどの内容がないクセに、さも何かありげに難しげな言葉を使ってごまかしてるだけで実は中身は空っぽといったもの。これ、その通りです。このノートを遡って読んで頂ければ分かるとおり、私の芝居はセルフ・ドキュメンタリーであり、劇中に現れるセリフ・エピソード・人物などは全て、過去・現在の自分に取材して捻り出したものです。『中身がないクセに難しげな言葉で取り繕ってさも何かあるように見せてるだけの薄っぺらな』作風なのは、私自身がそういう人間だと認識しているからです。意図して書いています。このように、意図してます、っていうと嘘をつけ!と牛鬼の如く怒る人がいるのですが、事実です。でも、違うふうにも書けるけど、あえてこう書いてるってことではないです。私には、そういう風にしか書けないのです。そう決めたのです。腹の据わった決意の薄っぺらです。深淵も真理も回答も啓蒙も何もなく、ただ上辺を、表層を行く。勿体つけつつ全力で血を流しながら。代わりに情報量とめまぐるしさでケムに巻く。「あざとい」と言われれば「あざとい」です。「稚拙」というならば「稚拙」でしょう。あざとくて稚拙な手法でしか表現できない世界があると信じています。ただ一つそこに切実ささえあれば。私は切実さに賭けています。私にとっての切実さ。芝居を書く理由。だから私の作る舞台に、あなたが一切の興味を覚えることができなくとも、それは仕方がないことです。当たり前なのです。私はどうしても、個人的にしか作品を作ることが出来ないのですから。

■私は「本質」が苦手です。よく分からないのです。例えばクジラという生き物がいます。海に住んでいるけれど、生物学的な分類では哺乳類。今では幼稚園児でも知っているコトです。でもそうでしょうか。生物としての構造は哺乳類的だけど、見た目や生活環境が魚みたいだから、やっぱり魚なんじゃなかろうか?幼児期からずっとそう思っていたし、今も思っています。みんな本質ばかりに気を配って、見かけ、上辺をないがしろにし過ぎている。もしくは、中身が大事といいつつ横目でルックスを気にかけるような目配せをする。欺瞞です。前作『薔薇とダイヤモンド』で、美容整形を繰り返す登場人物にこんなセリフを書きました。

「人間、顔じゃありませんから。心ですから。どうだっていいでしょう?顔なんて。飽きたら、変えるくらいで」

そういうのは嫌いだ!間違ってる!と仰るなら、ゴメンナサイ。多分、間違ってます。あなたは正しいのでしょう。どうか、正しい道を進んで下さい。間違ったことしか出来ない人間は、間違った表現を追い求めていきます。私は、正しさのために芝居はしない。正しいからやる、だなんて寒気がします。正しくなくても、やる。間違っていても、やる。やりたいことをやります。勿論、修正点・反省点は山のようにあります。『あんたのやりたいことは分かったし納得もしてやるけど技術が足りてないよ。セリフが聞き取り難いし、動くのはいいけどドタドタ煩いよ』というご意見も頂きました。ホントにその通りです。ひとえに私の演出力不足です。深く反省して精進します。

■何度も言います。私の芝居は、セルフ・ドキュメンタリーです。舞台に現れたものは全て、自分自身です。ですから、否定・批判・非難・罵倒は全て、私自身へのそれとなります。辛いです。逃げ場がないですから。ザックリ傷つきます。でも本当に逃げ場がないのは役者です。私の身勝手なセリフに血肉を与えてくれる役者たち。彼らが矢面に立って芝居を作ってくれるのに、私が身を翻して逃げるわけにはいきません。正面きってちゃんと傷つきます。…ってこんなことばかり書いてると大批判だらけの芝居だったみたいな印象になってしまいますが、そんなことはなく、これまでにない程の好評、賞賛を頂きました。3日目の終演後に知らないおじさんにガッ!!と肩を掴まれて無言でうなづかれたこともありました。でも「大好評のうちに終演!公演大成功!」という自作のアオリで見失いたくないものがあるのです。好評や賞賛と同時に、批判も非難も、私の深いところにちゃんと届いています。本当にどうもありがとう。すべてが次に向かうダイナモとなります。日々、少しづつ、胸の穴は埋まってゆきます。埋まり切る前に、次を作ります。きっと、作りますから。

■1月が終わってしまったけれど、まるで早いとは思わない。半年にも匹敵するひと月だった。でも年を越した気分はないです。そんなわけで忘年会をする。カレーも作る。

小野寺邦彦


#089 光のない 2013.12.06.FRI


■この際、男性用化粧室までは許そう。だが、多機能型化粧室とは何事だ。エステティックか。各種美容グッズ完備か。変形はするのか。合体はどうだ。なにせ多機能だ。便座に座るやメカニカルなアームが何本も出てきてオートメーションに美容を施術。邪魔する者はドリルとビームで強制排除だ。キャタピラで移動したその跡にはアネモネの花が咲いている。

■体調はだいぶ回復した。先週末から土日にかけてはほとんど立ち上がらずに寝てばかりいた。コンコンと眠り、フと目が覚めると、芝居の差し入れで頂いた甘味やお菓子で養分を取る。あなたのお心遣いで生き長らえております。あとは定食だ。定食を食わなくては。定食さえ食えば何とかなる。定食を食ったとき、私は甦るだろう。定食こそ力だ。その後にカレーだ。

■寝床で少しずつ、ハードディスクの整理をしたのだった。年末からチビチビと進めてきた作業だ。もう7年使っているデスクトップPCの容量が残り僅かになる度に、取り合えずという感じでゴッソリと中身をブチ込んできた120GBの外付けハードディスク。無秩序に放り込まれたままのファイルの一つ一つを開いてゆく。なくしたと思っていた過去の台本が現れる。稽古に追いまくられながら血を吐く想いで(実際吐いた夜もあった)書いたセリフの数々が、けれどまるで自分が書いたモノとは思えない。きれいサッパリ忘れているのだった。プリントアウトして読んだ。面白かった。なにが面白いって、もの凄くテキトーに書いているところだ。嘘と勘違いとデタラメがすごい。本人は正しいつもりで書いているのだろうが、どれも見当外れの大ボケだ。面白く読んで、そして反省した。近頃はすぐ調べてしまう。資料を読み込んでしまう。知らず腕が上がってしまったのだ。資料にあたり、調べ、読み込む、その能力。芝居に使う情報はおかげでだいぶ正確にはなった。けれど正しさと面白さは比例するものではない。当たり前だけど。もっといいかげんに書くべきだと思った。徹底的に調べた上で、テキトーに書く。ヌケヌケと嘘をつく。舞台は一瞬の幻、どんな大きなホラだって、時間イッパイ逃げきれば見てのお帰り、知ったこっちゃないのだ。逃げ足を堪える暇があるものか。打つ手は大逃げ一択、他にはナイ。

■寝込んでいる間に、夢を見た。セリフの夢だ。あまり人にうまく説明できないのだけれど、私はたまに文字だけの夢を見る。ヴィジュアルはなく、ホントに文字だけ。大抵、真っ黒の背景に白い文字が一行ずつ、現れては消える。一行だけの電光掲示板みたいな感じ。書かれている文字は認識できることもあるが、大抵読みとる前に消えてしまう。今回もそうだった。目の前に現れては消えてゆく文字が、読み取れはしないのだが、自分が書いた芝居のセリフであることは不思議と分かる。それが今、一瞬の内に次々と失われてゆくことも。不細工な芝居の、イビツなセリフたち。技術、技巧とは縁のない、稚拙なセリフたち。けれどそのすべては私が書いた。一文字たりとも他人に触らせはしなかった。私のものだ。私のセリフだ。何度抱きしめても飽き足らない。けれど稽古が始まれば、そのすべては役者のものだ。素晴らしい役者たち。カツゼツが悪くても、何言ってるのか分からなくても、喉が枯れていても、世界一の役者たち。預けたセリフはアっという間に私の知らないカタチに変わった。日々めまぐるしく姿を変えていった。今更、そんなことで戸惑いはしない。稽古場で私に出来ることは、変わり続ける芝居をただ眺めること。それだけだ。本当にそれだけなのだ。

■千秋楽の本番中、受付の事務仕事を抜け出して、客席後方のドアをそっと開けて中に入った。おそらくもう二度と口にされることはないであろうセリフたちが惜しげもなく宙に放り投げられては消えてゆく。ある一瞬、掛け合いのつなぎ目、セリフに詰まった役者がいた。その瞬間、音響の久郷さんの操作するフェーダーが僅かに上がり、自然に間を埋めた。そのなんでもなさ、さりげなさが嬉しかった。いい芝居だな、と思った。役者もスタッフも、キチンとセリフを埋葬してくれた。手厚く葬ってくれた。だから今、夢の中の暗闇に一行ずつ、現れては消えてゆくセリフたちは、役者の手を離れて、最後に私のところに戻ってきてくれたのだと思った。これでホントにサヨナラだ。これまでのすべての芝居のセリフと同じく、次に見るときは、まるで自分が書いたモノとは思えないのだろう。それでいいのだ。次に進むのだ。息を吸って吐くように新しいセリフを書く。釈迦も仏もひょいひょいと出る、だ。なんだかセンチメンタルな文章だが、そういう気分なのでいいのだ。あとで赤面しながら後悔するのも、テメェの蒔いた種だ。責任とってキッチリ赤面してやるのだ。笑わば、笑え。大ワラワだ。ザマーミロと言いたい。ハハハ。

■13年ぶりの大雪だという。夜になっても止まない吹雪の中、することもないのでフラフラと深夜営業の喫茶店まで出かけた。客の絶えた店内で一人、熱いコーヒーを飲みながらボンヤリと考えた。溜まりに溜まった仕事のこと。これからのこと。役者のこと。私は、私の芝居に出てくれる人たちに、何か一つでも与えることができるのだろうか。お金、仕事、何らかの評価。それらは私から、とても遠いところにある。芝居は楽しいが、生活は遠い。あきれるほどの距離だ。その距離をこともなげに、あるいは一歩一歩、詰めてゆく多くの人々を横目に、私はただボーゼンと立ち尽くしてしまう。別に悲観はしていない。ただ、ボーゼンとする。それだけのことだ。 私はボーゼンが、得意なのだ。

小野寺邦彦


#092 呆然の距離 2014.2.08.SAT


■駅前の本屋でフと見た文庫本のオビに次のような文句が書かれていた。

今、日本人に一番読んで欲しい本ー著者ー

そりゃ、そうだろう。何せ作者だからな。テメェの本なら読んで貰いたくて当然だ。

■歌謡曲の歌詞なんかでよく「人は~なものだから」とか「誰もが~だから」とかいうコトバを使うが、アレをやめさせろ。誰もがって誰だ。私は違う。お前の個人的な問題を勝手に人類規模にまで拡大させるなよ。失恋して涙が出れば

「人は弱い生き物だから」

夢に向かって歩き出すと

「誰もが翼をもっているはずだから」

弱いのは人ではなく貴様だ。俺に翼はないです。他人を巻き込むなバカ。個人の問題は人類全体の問題、ってこれがセカイ系か。ちゃんと「私は」って言いなさい。もしくは

「人はおなかが空く生き物なのだから」

とか

「誰もが臓器をもっているはずだから」

なら問題ないです。大きなコトバを主語にして、問題のツケを自分以外の者にもコッソリ背負わせる行為は卑しい。卑しくても何でもいいから、人類全体で私一人の問題を背負ってくれないと困る!ってとこまで開き直るなら、むしろ立派だけどね。立派に卑しい。尊敬します。

■つまり、主語は重要だ。主語を侮るな。セリフを書いていて苦しくなってくると、つい大きな主語を使ってしまう。特に芝居の後半。「人は」「誰もが」。つい、書きたくなるモノなのだ。だがそれはゴマカシだ。強いセリフは孤独でなければならない。そのセリフ一つで、責任を負わなくてはならない。何かに寄りかかった安全なセリフで、客席を射抜くことはできない。私は観客と友達になりたい訳ではない。突き放し、突き放されたい。それでもその先に何があるのか。何もないのか。まだそこまで強いセリフが書けたことはないけど。だからなぁ。ケッ、何が今一番日本人に買って欲しい、だ。おためごかすな。「今、私の生活のために一番買ってほしい本」って書いてあったら即、買う。

■月曜の夜。新宿の眼科画廊で南さんの出ている芝居を観る。懐かしい雰囲気の、ナンセンス・コメディー。90年代に戻ったような気分。始まって5分くらいで、高校生の頃に観た猫ニャーを思い出していた。猫ニャーの芝居には本物のヤギが出てきたが、今回の芝居にはカニが出てきた。一瞬、膨大な量の生きたカニが客席にブチ負けられるという展開を予想したが、そんな演出はなかった。やはり今は2013年なのであって、決して1996年ではないのだった。丁寧に積み上げられた、生真面目な笑いだった。笑いを作る多くの人が、とても真面目だ。真面目にふざけようとする。頭が下がる。何にせよ楽しそうで、何よりであった。

■水曜は池袋で『悪の法則』を観てから芸劇『光のない(プロローグ?)』。イェリネクである。難解なのである。難解なテキストを難解なまま、難解なモノとして放り投げる演出。何せ難解だ。当たり前だ、だって難解なんだから。舞踏を思わせる俳優の動き、繰り返され読み換えられるテキスト、死者という見立て、それら要素を従えて劇全体を支配する難解なるムード。その全てが正しく前衛的であり、スタンダードなまでにアングラであった。ジャンルとしての「前衛」、教科書通りのアングラ、そのアップグレード。恐るべき先祖還り。感動に震え体温が上がる瞬間と、余りの眠たさに意識が遠のく瞬間が同じくらいあった。上演が進むにつれて、客席のそこかしこでパンフレットを取り落とす音。握りしめたケイタイを床に落とす音。眠りに落とされゆく客席。遠のく意識のその奥に、死者の言葉、繰り返されるセリフがリフレインで聞こえてくる。終わってみれば75分、芝居を見たという気がしなかった。気を失うその度に引きずり起こされる。眠り損なった、そんな気分。近頃珍しい観劇体験だった。『ヒネミの商人』も楽しみだ。

■その後友人と合流し、一杯ひっかけた後の帰り道。駅に向かってフラフラと歩いていると、すれ違った女性が、ケータイ電話に向かってややうんざりした口調で言ったのだった。

「また、ブティック?」

ブティック…。って何だったか。懐かしい響き。ブティック、ブティック…。もちろんググれば一瞬だ。手元の端末で検索一発かければ、得られぬ知識などない時代。だからこそ、とっさには思い出せぬそのコトバをアタマの中で転がし、もったいつけて、しばし弄ぶ。食後、歯と歯の間に挟まった一筋の繊維質を、楊枝を使う前に舌で突っつき奮闘するあの感覚。ただ、未知の単語を端末に打ち込み検索にかけるときの味気なさは、いよいよ楊枝をブツリと歯間に突き立て歯をくじる快感とはほど遠い。情報にアクセスし、引き出す。その行為自体への興奮は、既にない。

■サラダせんべいのサラダとは何をもってサラダなのか、幼児期以来私は考え続けている。クドいようだが、調べればわかる。一瞬で分かるのだ。だが私はこれまで調べなかったし、これからも調べることはないだろう。いつでも答えが分かる、ということは、いつまで考えていてもいいということだ。永遠のサラダせんべい問題。二十数年をかけてこれまでに十通り以上の回答を私は捻りだしたし、ハッキリ言ってマァこれが答えだろうという見当もほぼついてしまってもいる。だが、まだ考える。退屈な映画や興味のもてない芝居をボンヤリと観ているとき、私がいつの間にか考えていることは、サラダせんべいの由来、その新案だ。

■しかし、それはそれとして「また、ブティック?」とは一体どういうことだ。たまにはカレー屋にしたらどうか。って、だからそれは何なのだ。

■今週はさまざまなトラブルがあった。表面上は穏やかだが、実際にはすごく混乱した気分で過ごした。混乱した気分で映画を観て、混乱した気分で観劇をし、混乱した気分で本を読んだ。混乱したままボンヤリし、混乱したまま寝た。落ち込んだし、荒れもした。そんな気持ちのままダラダラと書いたブログだ。ご覧のようにちゃんと混乱した内容になって、今、ちょっと満足だ。

小野寺邦彦


#093 ブギーナイツ 2014.2.16.SUN


■週末は、先週に引き続きまたしても大雪。近所の公演では大型犬が半狂乱で雪と戯れている。ひっくり返って背中や腹をジタバタと雪に擦りつけるその姿は、実に野生だ。普段何を取り澄ましてんだ、と思う。雪が振ればごらんの有様だ。雪よ降れ。甦れ野生。

■このウェブサイトのアクセス解析をしてみたのだった。公演時期には、一日に1500件くらいのアクセスがあったようだ。多いのか少ないのか正直わからない。まあ決して多くはないのだろうけど、それでもありがたいことである。平常時は一日400件程度。ロクに更新もされないサイトで申し訳ない。次回公演の予定も今のところないので、ジュラ記くらいしか書くページがないのだった。来週になったら、公演記録の『血と暴力の星』のページをノロノロと作るつもりではいる。この作業はもっぱら趣味である。趣味、ウェブサイト作成。いつの人間だって気がするが、サイト作りは楽しい。誰も絶対に気づかないような細かいところを、日々ちょっとずつ、チマチマ直す愉悦。高校の頃にハマったミニコミ編集に通じる楽しさ。やはり編集だ。編集が一番好きな作業だ。ただまあ、ご覧の通りの手作り感溢れるサイトで、ややダサいのはご愛嬌だ。桑原にも言われたんだ。ダサいと。うるさいんだよ。じゃあちょっと格好よくしてみせるがいい。どうだ。できるのか。やってみせてみろ。是非、宜しくお願いします。

■それは兎も角として、面白いのは検索ワードだ。検索ワードの閲覧こそ、サイト作成者に与えられた特権だ。どうしてこの言葉を検索して架空畳のサイトにたどり着くのか、というワードが目白押しだ。

手ぶら少年
少年 手ぶら
東海大相模 ローファー
アウトロー でしか生きていけない
70年代 女子高生 ファッション
カマトト 意味
着ぐるみ 大学生 女
鏡面床パンチラエロ
人と会う前に話題を考えてしまい、それを必ず喋ってしまう
ネット上からツイッターのアカウントの痕跡をすべて消す
ヘロイン中毒患者


『手ぶら少年』って何だ。200件近くもこの言葉で来訪してる奴がいるのだ。 手ぶらで、しかも少年だ。金輪際覚えがないんだ、そんな少年。 『少年 手ぶら』って、少年ケニアか。 手ぶらの国から来た少年か。どこにいるんだ、少年。 ていうか、なんだよ、手ぶらって。ぶらぶらさせてんのか。 そんな少年をかくまった覚えはない。サッサと出ていくがいい。 『鏡面床パンチラエロ』の世界にでも行ってしまえ。 妙に具体的すぎるワードも怖い。『人と会う前に話題を考えてしまい、それを必ず喋ってしまう』そうですか、 としか言えないじゃないか。『アウトロー でしか生きていけない』って、決意表明か。 何のつもりで検索したんだ。アウトローとしての生き方のモデルケースでも探しているのか。 それはアナタ、全然アウトローな態度じゃないです。アウトローを養成する、アウトロー専門学校にでも通うがいい。 アウトロー専門資格2級をゲットだ。『ネット上からツイッターのアカウントの痕跡をすべて消す』って、怖いよ。 そんな方法知るものか。切実だ。何があった。すべての痕跡を消したい人よ。 ここにその方法は載ってはいない。アウトローにでも聞くがいい。しかし『ヘロイン中毒患者』はまずい。アウトローでもそこまでは行ってはならない。何のサイトだよ。

■舞台が終わり、3週間が経とうとしているが、まだポツポツと感想のメールが届く。ありがたい。時間が経ってからの感想は、じっくりと書かれているものが多く、とても参考になるのだった。褒めて頂いているところは、まあ、個人的にニヤニヤしておけばいいので、ここで自慢して書くようなことではない。問題点として多くの人に指摘されたのは、言葉(セリフ)が断定的に過ぎたのではないか、ということ。対話を拒んでいると感じた、という感想。閉じた言語なのではないか、という感想。それらは私が意図したところもあり、全くそうではなかった面もある。

■全ての人物が、間違っていること、矛盾していることでも、ハッキリと断定して喋る。それは今回の芝居を書く際に、最もキツく自分に課したルールだ。理由はイロイロあるが、一言で言えば、そういう芝居が見たかったから。『これはあくまで僕個人の意見なんですが』『誤解を恐れずに言えば』『自分的には』そういう逃げ道を作っておいてからのコトバが嫌いである。『誤解を恐れず』って、誤解をもの凄く恐れている人間のコトバだ。恐れてないなら、そんな前置きせずにサッサと言えよ。もしくはチャンと『誤解しないで欲しいのですが』って言うべきだ。逃げ道作っておいて、格好つけるんじゃないよ。芝居を見ていても、いったい誰に気を遣ってんだ?ってくらい、エクスキューズだらけのセリフがしばしばある。もっと、間違いと断定と独断に満ちた、殴り合いのようなセリフの応酬が見たいと思ったのだった。その試みはある程度成功したと思う。これまでのどの舞台よりも、舞台上に流れる時間の緊密さ、濃密さは増したと感じた。だが、そこに閉鎖性・内向性を感じた人もいたのだった。大きな力で客席をグッと押せば、客席からもググっともっと大きな力で押し返してくる、そんな作用を狙ってぶっつけた強いコトバに、けれどあてられて、距離を感じてしまった人もいたということ。反省。もっと上手い方法があるはずだ。単語の使い方。セリフとセリフ、そのジャンプする距離。身体の使い方。また別の種類の「情報量」のあり方について。考えるべきことはまだまだある。山のようにあるのだった。

■しかし希望も感じた。『断定的なセリフ』ひとつ取ってもそうだが、そのように書けば、ちゃんとそこに対する反応はあるのだ。甲斐があるのである。私は絶対に客をナメない。程度を計らない。そのことだけは違えない。舞台上と客席とでバチバチと火花を散らすような瞬間。劇場全体が、ある一点に向かって、針の先のように集中力を尖らせてゆく瞬間。すべてはその一瞬のためにある。今は、その途上。ずっと途上だ。

小野寺邦彦


#094 全身練習家 2014.4.4.FRI


■居酒屋で、会計したいのになかなか店員が来ず

『お愛想して!…おい、お愛想!…お愛想だよ!…オイコラァ!お愛想しろぉやぁぁぁぁぁ!!

って、愛想を乞う人。

■人の芝居を観に行く。

■劇団公演ではなく、方々から様々な俳優を集めた、いわゆるプロデュース形態の座組。小劇場界隈では名の知られた、達者な俳優たちがいる。水準の高い演技がある。気の利いた笑い。ちょっとしたクスグリ。洒落たセリフ。楽屋落ちや客席イジリで沸く客席。破綻のない、安全な脚本。スモークと共に感傷的な音楽が流れ、俳優がJポップの歌詞のように健康的なセリフを高らかに読み上げて、幕。客席からは涙、拍手。終演の5分後には、これから繰り出す打ち上げの算段で盛り上がる関係者たち。公演の目標は、赤字を出さないこと。

■生産だな。製品として、生産される演劇。俳優は演技をこなすサラリーマン。それはきっと正しい。皮肉やレトリックとしてではなくシンプルにそう思う。きっと、正しいのだ。安定した品質。破綻のないドラマ。そういった質のものを求めている人が、あれだけいる。そしてそれは私の求めている観客ではない、それだけのことだ。私は、私の舞台の観客を、まだ見つけることが出来ていない。彼らは、見つけている。その差だ。どこかに必ずいる、私の舞台を必要としているハズの人々。幻想だろうか。思い上がりか。気が遠くなるハナシだ。その遠さが、けれど希望だ。困難こそが愉悦なのだ。ゴマメの歯軋りと笑わば笑え。ハハハ。

■ところで俳優がサラリーマンというのは、決して悪口ではない。そうあるべきとも思う。ただ、何故か私の周りにはいないのだ。リーマン俳優。なんでだ。そういったタイプの俳優が集まっていれば、きっと私の芝居の質も変わっていただろう。そういうものだ。概ね、たまたまだ。自分のやっていることなんて。

■人のことはいい。自分だ。次の芝居のことを考える日々。

■幾つかの降って湧いたハナシが奇跡的にまとまって、次回公演の劇場と日程がポンと決まったのだった。で、まずは台本。パソコンの前で、電車の中で、深夜の喫茶店で。グルグルと取り留めのない思考の尻尾を捕まえて、エピソードを探す。街を歩く。すれ違った瞬間に聞こえたコトバをきっかけにセリフを書く。書き飛ばし、書き殴る。よく分からなくなる。セリフとセリフ、ジャンプするその距離の適切さ。役者に一言、喋って貰えば判断つくのだけれど、そこを堪えて独りで考える。ある方法を使えば瞬間的に処理できるコトを、ムダに時間をかけて考えるということ。非効率。たった一行、一呼吸のセリフに、どれだけムダを費やすことが出来るか。時間をかけて、間違えてみる。限界まで粘り、拘り、バッサリと捨てる。どうかと思うほど、ストイックに。おかげで稽古が待ち遠しくてたまらない。

■それにしても、稽古が好きだ。芝居に限らず、私は練習が好きだ。音楽、スポーツ、文章、その他もろもろ。永久に練習だけしていたい。本番に向かうための、手段としての練習ではなく、ただ練習をするためのみにする練習。独立したジャンルとしての練習。練習の大会があれば出場する。大会に出るためにも、やはり練習だ。練習愛好家。純粋練習家。勤勉というわけではない。むしろ怠惰である。勤勉な人は、最短距離を一直線に向かってゆく。私はグダグダする。寄り道する。道草。意志あるムダ足。気を抜くと、つい急いでしまう日だってある。頂上を目前にして、後退する勇気。まだまだだ。まだまだ未熟な後ろ足である。

■練習は嘘をつかない、などという人がいる。勿論、嘘である。練習は嘘をつく。どんなに時間を費やして練習したとしても、コケるときはコケる。練習で一回も失敗しなかったところで、よりによってつまずく。そういうものです。出来なかったのは、出来るまでやらなかったからだ、なんて言う奴は嫌いだ。出来るまでやったのに、出来ないこともある。だからいつまでも練習できるのだ。むしろ、練習でできたことが本番でもパーフェクトに出来るということは、その程度のイージーな内容だ、ということだ。芝居はライブだ。成功するかしないか、ギリギリのラインを攻めるべし。出来ることしかやらない芝居は退屈だ。私は、失敗より退屈を怖れる。退屈に比べれば失敗など、屁でもないのだ。

■ま、『嘘をつかない』なんて、いかにも嘘つきの言いそうなことではある。

■春である。いよいよ花見だ。花見は修行である。今年も修行に勤しむ。

小野寺邦彦


#095 消失 2014.4.11.FRI


■休日だった。

■昼まで働き、一息ついてから、さて洗濯だ。それが終わったら遊びに出かける予定だったのだ。映画と、芝居。その間に書店に寄り、取り寄せていた本を受け取る。完璧だ。完璧な休日だ。だがこんなものではナイのだ。一週間分の衣類を放り込んだ洗濯機を回す間に、ジュラ記までも更新しておこうと思いたった。どうだこの知機。寸暇をもムダにしない男だ。ニクい背中だ。そして30分、みっしりと書いたのだ。素晴らしい内容だ。ほれぼれする文才だ。この文章がアップされるや私の名声は天を駆け海を巡り、次回公演は超満員御礼間違いなく寝ぐせも直るだろう。 …それをパソコンの野郎。あと1分で書きあがるところで、フリーズしやがった。こうして世紀の名文は消失したのだった。あまりに腹が立ったので、投げやりにふて寝だ。そうしたら、8時間だ。日が暮れてるじゃないか。そして着る服は、ない。沈黙した洗濯機の底には、冷えきった布の固まりがベッタリとへばりついているのみだ。

なんてことだ。

たった一瞬のフリーズが、哀れな労働者からなけなしの休日と天下に響く名声と衣類を奪い去った。フリーズめ。フリーズの奴め。許せねえ。許すものか。フリーズは怖いよ。フリーズより怖ろしいものがこの世にあるか。フリーズこそ人類の敵だ。フリーズを野放しにするな。フリーズを滅ぼすために今こそ立ち上がれ(濡れた服で)。

■でも書いていた文章はホントに惜しいので、そのうちちゃんと書き直します。やるぞ。俺はやる。きっと、やるだろう。

■打ち合わせの日々だ。次回公演に向けて。さらに信じられないことには、来年のハナシまでもがフイに飛び込んできた。来年って。いい加減にしろ。生きているかも分からないよ。けれどまあ、それが常識らしい。むしろ公演の半年前に劇場も決まってないことのほうが、100倍クレイジーらしい。そうだろうなぁ。そんな気はしていたんだ。芝居を始めて以来、ずっとそんな調子でやってきた。それでも何とかなるモンだ。そのうち、痛い目を見るだろう。

■池袋で、衣装の打ち合わせをした。というかまあ、いつもの通り、私が一方的にベラベラと喋ってばかりいた。親のカタキのように喋ってしまった。喋って喋って喋りまくった。ほとんど初対面の相手にだ。コーヒーを飲みながら喋り、メシを喰いながら喋り、ビールを飲みながら喋る中でつい不用意に、「美しい」というコトバを使った瞬間を、けれど捕まえられてしまった。聞かれたのだ。

「小野寺さんにとって、美しい、とはどういうことでしょう?」

声が出なかったなぁ。つい調子に乗って大きなコトバを使ってしまう。逡巡の後に、『執着』ではないかと答えた。理屈はナイ。なんか、勘だ。苦し紛れだが間違ってはいないだろう。そのハズだ。意味はおいおい、考える。美と執着。逆説として、醜さとしての潔さ。そんな思考の中から、うまくすれば芝居のエピソードが一つ出来るかもしれないし。出来ないかもしれないけど。出たとこ勝負のハッタリ頼り。そんな苦し紛れをキッカケに、いつだって作っている。やはり、人と話さないとダメだな。話しながら書き、書きながら考える。それが性に合うのだった。それにしても楽しかった。聡明な人だ。衣装が楽しみだ。好き勝手に作って欲しい。好き勝手に書く者の舞台には、好き勝手に作った衣装こそが相応しいのだ。

■夜。喫茶店で、若いカップルが向かいの席に座っていたのだった。彼氏はムッツリと黙り込んでマンガなんか読んでいるのだけれど、彼女の方はそんな彼に向かって、お構いなしにずーっと話しかけ続けていた。で、そのハナシが相当、面白かったのだ。 テレビの討論番組の観覧者に一度は当選したのだが、 ある顛末から直前で出演を断念した話。 会う度に(頭髪ではなく)髭が薄くなってゆく親戚のおじさんの話。 妙齢の女性が、局面ごとに自らの自意識をオバさんとお姉さん、二つのモードから選択する、その際の判断基準について。 地元では知らぬ者のない、中学のときの『マラソン革命事件』。 …お、面白い!面白いよ、彼女!どの話にもオリジナリティとアイディアが満ちていて最高だ。話し方も巧みで、ところどころ、ちゃんと相手が意見を挟み込み易いように「スキ」を作ってくれる配慮の細かさはどうだ。達人だ。僕、逐一合いの手入れてましたもの、心の中で。それなのに、ああそれなのに!話を振られている当の彼氏の方は顔もあげずに「フーン」なんて生返事だ。時として沈黙だ。

ああああ、も、勿体ねぇぇ。

彼女よ、なぜだ。なぜその男なのだ。君の向かいに座る男がもしもだよ、もしもこのオレだったならば。素敵な君の話をどこまででも転がしてゆくことが出来るのに!そう、どこまででも…。けど、彼女は幸せそうだった。弾んだ声でニコニコと、喋り続けていた。

■無口な男が好きなのだろうか。違うか。好きな男が無口なだけか。意味もなく敗北感でいっぱいの夜だ。

小野寺邦彦


#096 ロマンス 2014.4.24.THU


■深夜、高円寺の安酒場にて。

客 『ソルティ・ライチ下さい』
店員『すみません、ライチが切れてしまいまして』
客 『じゃあ、特製カルボナーラ風焼きうどん大盛り』


どんな「じゃあ」なんだよ、それは。

■相変わらず、打ち合わせてばかりの日々。劇場、スタッフ、その他関係者モロモロ。合間に役者への出演依頼。公演を打つ度に、毎回必ず一人は新しい人に出て貰いたいと思っている。役者への興味が、台本を新しい局面へと前進させてくれる。だがオーディションは駄目だ。上手いからな、応募してくるような奴は。それにオーディションで集まる人々は『オーディションにやってくるようなタイプの人』ばかりなんだ。そりゃそうだ。それが私には退屈だ。欲しいのはやや外れた人間だ。故・かしぶち哲郎氏は、ムーンライダーズのドラマー募集オーディションでギターを弾き、自作の歌を延々と歌ったという。そのデタラメさ。痺れるじゃないか。まあ、来ないけどね。集まらないよ、そんなに人は。知名度はまるでないし。そんなワケでいつだって役者を探している。役者を求めて徘徊する。そういう種類の妖怪だ、私は。

■前回のエントリで、「生産」される舞台について書いた。書いてすぐに考えた。では劇団とは何か。ある方法論、演劇論にアプローチするための肉体を、試行錯誤を含めたトレーニングによって作り上げてゆく、つまり時間をかけて、それこそ表現を「生産」してゆくことこそが劇団という制度の特徴ではないか。それに疲れた人間あるいは性急な人々が、いわゆる「プロデュース」の形態を取ることで狙うのは、役者と「出会う」ことである。作るのではなく、出会う。なんだか素敵な感じがする。ムシのいい話のような気もする。

■今、私が夢想するのは、効率や生産性から離れてゆくための集団としての劇団だ。そんなことが可能だろうか。仮にそのような創作が可能であったとして、続けてゆく中で今度はその『効率や生産性から離れる方法』自体が効率化され、生産されてゆくのではないか。方法論から抜け出すために用いられる方法論。はじめはイマジネーションであったものが、自覚され、手法化されることで単なる手管になる。段取りに変わる。それは例えば、アングラと簡単に言って想起される、あの「類型的な前衛」の姿がそうだ。それを救うのが役者なのかもしれない。同じ方法、同じセリフ、同じ演出であっても、演じる人間が変わることでそれらは全く異なる姿を見せる。すなわち、百の方法論も、たった一つの肉体によって超克され得る。…そうだろうか。それは甘美なロマンに過ぎないのではないか。理論、手法に手詰まり、行き詰まった作家の陥る夢ではないか。たった一つの肉体に出会うことさえ出来ればイッパツ解決、オールオッケー…みたいな。だから「技術」や「生産性」をないがしろにして、「出会い」ばかりを求めるようになるのか。だがそんな「出会い」など幻想ではないか。分からない。どうなんだ。

■2011年に上演した
『薔薇とダイヤモンド』で、私は一組の姉弟を描いた。弟は、幼い頃に姉を亡くし、今は一人で暮らしていることが示される。だが、一方の姉も舞台に現れて、やはり幼い日に弟を亡くし、今もその死の原因を追っていると語る。二人は、お互いの夢にそれぞれ立ち現れて、死者と生者の立場はその都度入れ替わる。実際に姉弟のどちらが生者であり、死者であるのか、あるいはどちらも死者、あるいは生者なのか。一切決めないまま稽古場にその謎を持ち込んだ。その謎を紐解いてゆくことで、『物語で人が一人死ぬとき、現実にも一人の人間が死ぬ』そのデッチアゲに回答を与えようと考えたのだった。

■だがそんな思惑は稽古初日、姉役アメを演じた役者の第一声で掻き消えた。うまい芝居ではない。ある特殊な、限定的なシチュエーションでのみ魅力を発揮する、それは狭く深い才能である。私は当初予定していたより遙かに多くのセリフを彼女に書き、エピソードを書いた。結果、エピソードは膨れ上がり、他のセリフを割り込み、バランスを欠き、物語は大きく混乱していった。それでも私には足りなかった。さらにヤケになって彼女のセリフを重ねた。芝居はいよいよ混沌に陥ったが、その混乱そのものが、誰が生きていて、死んでいるのかわからないという、主題そのものを体現していったのだった。物語の構造の混乱が、そのまま芝居の柱になった。そこに答えを与える必要は、もはやない。質問だけで構成された芝居。それを導いたのは、たったひとりの役者の肉体であり、声である。私は満足だった。この作品に再演は有り得ない。彼女以外にあの役は不可能だ。

■役者が、思惑を越えて書かせてくれる。とろけるように甘美な体験だ。けれどハナからそれを期待して書くことはしてはならない。役者さえいれば、劇作や演出など、大した問題ではないのかもしれない。そんな風に思うこともある。そんな風に言う人も(かなりの数)いる。だが、それは言い訳だ。役者が良いことが、劇作・演出がイマイチでもいい理由になるワケがない。役者が良く、劇作・演出だって良い。それにこしたことはないのだ。当たり前のことだ。当然の話だ。役者さえよければ…などと言うときは、要するに自信がないのだ。この台本はちょっと…というときほど、そんなコトバを使いたがるのだ。役者をスケープゴートにして、台本のダメさをスポイルする。観たいものか、そんな芝居。今、私は宣言する。芝居は、ホンだ。台本の出来が全てだ。そう言い切って初めて、役者を稽古に迎え入れることが出来る。セリフを託すことが出来る。もちろん、足は震えているけど。

■ランタンパレードとスカートばかり聞いている春。それと、豊田道倫。音楽をかければ、不思議と夜は長い。ダラダラして結局、朝になってしまうんだけど。そんなわけでダラダラと書いてしまった。いつものことだ。

小野寺邦彦



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