FLIP SIDE.s NOTE
#105 デバッグ演劇 2015.9.03.WED
■『この一食で、一日に必要な野菜の三分の一が摂取できます』
■携帯電話の着信メロディー、いわゆる着メロ。昔、それは手入力だった。先日知り合ったアラフォー女性が昔とった杵柄でその技を見せてくれた。ガラケーを取り出し、物凄い速度でダダダダダと打鍵すると数十秒で『剣の舞』の着メロが登録完了だ。そのクオリティー。その速度。感動かつ哀しい。絶対に役に立たない技術の凄まじい精度。この感情は、好きである。
■『泣けば許して貰えると思って~』という人間は、泣くことに費やす労力を分かっていない。俺は泣けば許す。ていうか、謝ります。ごめん。
■本屋へ行く。新刊のポップにこんなことが書いてあった。『幽霊の生活をリアルに描写』。幽霊の生活を、リアルに。それ、ファンタジーじゃないのか。リアル。リアルってなんだろうか。それっぽく、ということか。辛子明太子の苦悩をリアルに描写。かかとの、爪先に対する羨望がリアルに描かれている。『リアルで切ない恋心を歌って女子に圧倒的な共感と支持を受ける歌手』の歌詞の内容は不倫だ。不倫が悪いというハナシでなく。ふつうの生活では有り得ないようなハナシをまるで自分が体験するかのように錯覚させてくれるものが『リアル』なのだろうか。説得力。ディティール。それがリアル。だとすれば、ボソボソ喋ったり、事件らしい事件が何も起こらなくて、それでも日々は過ぎてゆくのが『リアル』だと吹聴するような芝居とはだいぶ、違うモノのようだ。
■エスパー魔美のポーズでタクシーを止めた女を見た。
■日常にあるミステリー。仕事場の最寄駅構内に、チェーンのそば屋がある。ホントに、何てことないそば屋である。何てことなさ過ぎて書いてしまうが、『箱根そば』である。何度か利用したこともあるが、味も、店構えも、接客態度も極めてフツー。取り立てた特徴など何一つない、チェーン店の中のチェーン店。だがこれが恐ろしい人気なのだ。朝7時のオープン前には、早起き老人たちが5、6人ほども周囲をウロウロし、開店と同時に弾丸入店。昼時ともなれば店の外にまで列ができ、はじめ店内にあった券売機を、店外に設置し直した程だ。
極めて妥当。
■もう随分前のハナシだが、こんなニュースがあった。コンピュータとプロ棋士が将棋で対局する電脳戦で、人間の棋士が、定石ではありえない一手を打った。するとその手が、コンピュータにはプログラムされていなかったために認識できず投了となった、というハナシ。
■これはいわゆるデバッグだ。公開デバッグ。デバッカーはプロ棋士。これ以上は望めない、贅沢過ぎるデバッカーといえる。プロにデバッグさせやがった。フと、デバッグ演劇、というコトバが浮かんだ。どんな演劇だそれは。戯曲の矛盾や役者の演技のまずさや演出の解釈の誤りを公開で指摘し、修正しながら進む演劇。ていうか、それは稽古だ。公開稽古ってそういうモノなんだろうか。違うか。どうなんだ。よく考えたら、ヒトの稽古現場に行ったことは殆どない。だからヒトがどんな稽古をしてるのか知らない。稽古の仕方を教わったことも学んだこともない。私はトンでもなく的はずれな稽古をしているのかもしれない。ていうか、してるんだろう。きっと、している。してるに違いないんだ。
■10年くらい前に、やたらとプレビュー公演、というのを見かけた。初日の2、3日前に客を入れて、ちょっと割引して公演をする。客からアンケートを取って、その意見を反映するとかナンとか。ハッキリ言って意味が分からなかった。作りかけの作品を金払って見ようとは思わないし、そもそも他人の作品に自分の意見を反映させようだなんて考えたこともない。君の意見をこの芝居に反映させよう!嫌だよ。絶対に嫌だ。これが俺の作品だあ文句あっかとドーンと出して欲しい。たとえそれが観客たる自分の意に沿わぬ作品であったとしても、俺の意見をその作品に反映させようだなんて思いもしない。好きに作りゃあいいのだ。大体、2日か3日程度で、客の意見を反映して芝居作り変えるくらいなら初めからチャンと作れと言いたい。なんだかよく分からない試みだった。双方向メディア、みたいなことを謳うのが流行っていたのかもしれない。覚えてないんだけど。
■当時、大きな劇団や有名劇団が、けっこうこのプレビュー公演、というのを宣伝していて目立っていたために、客が100人くらいの誰も知らない小劇団もプレビュー公演!と言い始めて、いよいよワケが分からなかった。プレビュープレビュー煩かった。
場合によっては、プレビュー公演を2日やって本番は1日、とかいう謎の公演形態もあった。
たぶん、あんまりプレビューの意味が分かってなかったんだと思う。そういうのは、ちょっといい。
全日プレビューのみ!とか。本番なし。プレビューのみ。そういう公演があったら行きたい。いよいよプレビューの意味が問われる。
でもまあ、プレはいいよ。ビューを見せてくれビューを。俺はビューだけでいい。ビューだけもってこい。そんなわけで私の芝居は一方向だ。作りたいようにしか作らない。ビューしかない。裸一貫、作品ひとつ。見たらお帰り、プレもアフターもナニもない。だから、貶したいように貶せばいいし、勿論、褒めてくれてもいいのです。いいんだよ。
■というわけで、一年ぶりの芝居は、劇場公演ではなく、出演者は全て女性。企画を立ててから稽古まで約2ヶ月という行き当たり場当たりである。座・高円寺や吉祥寺シアターなど、しばらくホール公演ばかりだった中で、何となく、小さな空間での上演を前提とした作劇・演出に興味が湧いてきて、湧いたら仕方ないのでやることにしたのだった。一年以上前に劇場を押さえなくてはまともにスケジュールを組めない東京の演劇事情に絡め取られて、ルーチンワークのように芝居を作ることにちょっと飽きたりしていることもある。ルーチンもいいんだけどね。ルーチンと場当たり。その両輪が必要だ。わがままだ。A面とB面。今回はB面、フリップ・サイド。いろいろ気楽に試してみようと考えて、初めてオーディションで出演者を決めたりした。採用した人に逃げられたりもした。あのヒト、今どうしているだろうか。全てが嵐のようなこの2ヶ月の中で、台本は昨日、完本。初日の12日前。ハッキリいって記録的なスピードです。ダメなんだけどね。もっと早く書かなくては。反省する。でもきっとケロリと忘れるだろう。
■またしばらく、このノートを更新していこうと思いますので、しばしお付き合いをお願いしますね。
小野寺邦彦
#106 対批評戯曲 2015.9.05.SAT
■今回の芝居を書く前に、何かヘンな書き方はないかなぁ?と考えていて、思いついたのが対批評戯曲である。作品よりも先に、まず批評を書く。まだこの世に存在しない戯曲の批評を書くのである。それもなるべくデタラメに書く。この作品は家元制度の復権をテーマに盛り込んだ 瞠目すべき怪作で、著者のメッセージは次第に天皇制批判へと向かうが、それを語る登場人物たちの視線はあくまでシニカルである。とかなんとか。どうしようもなくデタラメだ。デタラメであるほどいいのだ。具体的なシーンにも言及する。夜、家族が寝静まったあと、主婦が茶碗に向かって足の爪を切るシーンの切なさといったらなかった。とか。そして当然、批判もする。もしくはコキおろす。この作者はココが分かっていない。書けていない。次回作に期待する。そうやってデッチあげ、完成した批評文の「とおりに」戯曲を書くのだ。もちろん批判部分も、批判されている内容に従ってチャンと書かれなければならない。
■実はこれ、今回少しやった。戯曲より先に、戯曲の批評を自ら書くのは大層、おもしろかった。当然というか、全編それに従って作ったのではないにしろ、好き勝手に書いた批評文を眺めながら、どーしたらここに書いてある通りにお話ができるかな?とアイディアを捻るのは楽しかったのだった。内なる表現衝動からではなく、外圧で書かれた戯曲。外圧戯曲だ。なんだそれは。
■どんな作者も同じだと思うが、自作に向けられる批評や批判、あるいは評判といったものは、ほぼ全て想定内のものだ。自作がどう受け入れられ、どう批難されるのか。作者には分かっている。どの部分が褒められ、どこが、どのように貶されるのか。分かりきっていることなのだ。問題は、批難されても、それでもそこを書くのか?ということだ。私は書く。そこを書くことで、ある種類の人々が弱点としてあげることは分かっている。それでも書く。書く事でいびつになる。ないほうが分かりやすくまとまる。受け入れられる。それは分かっているんだけどね。でもそこを書かなかったら作品にならないのだ。しょうがナイのだ。本当は貶されたくはないし、褒められたいし、嫌われたくもないんだけど。でも、人に好かれるために芝居を作っているわけではなく、作品を作りたいのだから仕方がない。そこらあたりを上手くやる方法もあるのだろうけど、私は下手なのだ。単純に、技術が足りない。獲得しようとしている表現に対して技術がまるで足りていないのだ。うまくは書けない。ならばせめて、全部書く。身の丈知らずは生まれつきなのだった。
■『かけみちるカデンツァ』の稽古も20日を過ぎて、昨日は出来上がったシーンをアタマからラストシーン手前までザクザクと通してみた。広くはない舞台に女性ばかり8人、バタバタと動き回り喋りまくり出ハケもない。終始全員出ズッパリ。まだまだ混乱し、未整理な舞台だが、すごくハッキリした芝居になっていて意外だった。意外で嬉しかった。今回、女性だけの芝居を作っていて知ったことが幾つもあるが、一番感心したのが、投げ出さなさだ。演技を、セリフを絶対に投げ出さない。どんなにつっかえたり、間違えたり、忘れたりしても、自分のセリフは絶対に最後まで言い切る。言うから、飛ばすな!という気迫がビリビリと出る。男の役者は結構、言いよどむと途中でグジャグジャにしたり、つっかえてしまうともうそのセリフを諦めてしまうことが多いと感じるが、それがナイ。本当にないのだ。だから完成度は低くても芝居がスッキリしている。成立している。驚きました、私は。やってみるもんだなぁ。いろんな発見がある。
■女性だけの芝居を作って知ったことはまだ他にもある。荷物の散らかし方が物凄い。広いスペースには存分に、狭いスペースでもその範囲内にミッチリと。広さは問題ではなく、占有率なのだ。どんな空間でも100%余すことなく荷物を広げる。床にお菓子が並ぶ。フと見ると誰かが何かを食べている。そして、全員が同時に喋っているのに、何故か話がまとまるのである。
小野寺邦彦
#107 終わって始まる 2015.9.07.MON
■前回のエントリをアップした後、ある人に「アフタートークというのも、なんだか流行っていたよね」と言われた。そうですね。芝居が終わった後に演出家が出てきてゲストと喋ったりする。ポストパフォーマンストーク、シアタートーク、そういうかっこいい呼び方もある。演出家や作家、俳優による創作の裏話や作品解説。質疑応答。あるいはよその作家や演出家、各界の著名人を招いたりしてトークをする。今でもとっても普通に行われている。集客が難しい平日の公演後なんかに行われることが多い、のかな?きっと。有名人見たさに、ミーハー気分で特に観劇予定のなかった芝居を観にいったことが私にも、ある。何回もある。でも面白いアフタートークに当たったことは、あんまりない。ていうか難しいよ、アフタートーク。今観た芝居の感想を言えと言われてもな。前もってゲネプロなんかで見ていてもだ。最悪の出来の回とかだったらどうするのか。けなす訳にもいかないだろうし、なんか当たり障りのないボンヤリとした感想、あるいはお互いの近況報告や褒め合いみたいな薄ら寒いことになりがちなのだった。
■でもまあ、それはいい。取り敢えずオマケという扱いだし。こっちだって有名人見たさで来てるのだ。ミーハー心は満たしてくれる。問題はまたしても、誰も知らない無名劇団である。確かに一時期、やたらと流行っていた。トークづいていた。「アフタートークあり!」フライヤーにはそう書かれている。タイムテーブルに☆なんかがついている。誰が来るのか。演出家の一人喋りだろうか。怖しい。不安で観にいけない。「全ステージ、アフタートークあり!」すべては終わったあとから始まる。アフタートーカー。なんだかカッコいいじゃないか。
■と、書いていて思い出したのだが、一回だけ、芝居よりも面白いアフタートークを観たことがあった。劇団本谷有希子のシアターモリエールでの公演で、正直芝居はつまらなかったが、その後に催されたアフタートークで本谷有希子の父親がゲストして現れ、なぜ娘への仕送りをやめたのかについて親娘で議論したのはスゴかった。あれは面白かったなあ。でもこんなに面白いのなら、芝居をもっとチャンと作れとも思った。ひょっとしたら、芝居のデキに自信がなかったために、面白い企画を足したのかもしれないな。そういう挽回の仕方もあるか。やっぱりスゴい。芝居がダメならトークで勝負。スゴいし、偉い。
■「かけみちるカデンツァ」の稽古も残り一週間を切る。そんなわけで昨日は衣装パレード。公演規模の関係から、今回は衣装を製作出来ないので持ち寄りと買い出し。集合は朝10時に原宿である。竹下通りである。10時かよ。おお10時。10時ってそれ、私には夜中だ。あるいは明け方。そんなわけで遅刻して11時に到着。出演俳優の女性陣5人について回る。スゴい人。人人人。原色、原色、原色。オモチャみてぇな街。すれ違う少女2人の会話が聞こえる。
『事務所、どこにする?』
『名刺の色がカワイイところ』
ボーゼンと佇む私。なにせ女性5人の買い物だ。衣装だ。服だ。いつ終わるともしれぬ迷宮。忘我の深淵。この一日で700回くらいの「かわいい」を聞いた。満腹。今ならゲップが出ても「かわいい」と音がするだろう。
小野寺邦彦
#108 幻視 2015.9.23.WED
■よくある問答の一例。
「この役は(例えば、恋愛の)経験が少ない人には、演じるのは難しいかもね」
「では、人殺しの役は、人殺しの経験がある人にしか、できないということになりますね」
そうなんだけど、そうじゃない。殺人事件の報に接した際、自分もいつか人を殺すかもしれない。自分と殺人者には何の違いもナイ、と考える人と、自分が人殺しなんてするワケがない。そんなことをするのは自分とは別の種類の人間なのだ、と考える人がいる、というハナシ。ある人には、リアル。ある人には、ファンタジー。リアルは経験に近く、ファンタジーは遠い。稽古中、いつも頭を悩ませるのは、その距離感と接し方だ。リアルなら全てよい、ということでもないので厄介なのだった。
■いろんな人に話しているのだけど、今回の芝居は、私が痴漢を見たことがない、という個人的な問題からスタートした。高校・大学含め10年以上もほぼ毎日電車通学・通勤を繰り返しているにも関わらず、痴漢の現場や、騒ぎになっている場面に私は出くわしたことがないのだった。だが改めて統計を調べてみて、それは有り得ないのではないかと思った。報告されている、日毎の痴漢発生件数と自分の乗車時間を照らし合わせてみた際、それは不自然なのだ。問題の性質上、未報告の事例もまた膨大であろうことを考えれば、10年間で一度も痴漢の現場に遭遇していないなどということは考え難い。そこで私はこう結論した。気づいていないのだ。
■例え目の前で、今、痴漢行為が行われていたとしても、私にはそれが見えていない。痴漢行為という存在をリアルに捉える能力に欠けている。自身の認識の外にある事象に、人は気づくことが出来ないのだ。私にとって痴漢行為はファンタジーなのだった。テレビで中継される戦争のように、知ってはいても、切実ではない。胸を痛めることはある。だが、頭を抱えることはない。関係がないからだ。問題にしていないのだ。自分から、遠く切り離された世界の出来事として、それはある。その鈍感さ、救い難き認識の欠如を暴力として描くことから、『かけみちるカデンツァ』はスタートしている。リアルな認識からではなく、リアルに近づくこと。それはトンだ勘違いかもしれない。分かっていないクセに書いてしまったのかもしれない。知ったかぶりの不遜な行為なのかもしれない。それを知るために書いた。やっぱり、ファンタジーになってしまっただろうか。
■芝居にかまけ、溜まりに溜まった仕事の山。一日、身動きがとれない。もうどうしていいか分からず、ハハハと笑うのみだ。おいしいカレーを作って現実から逃避しよう。現実逃避なんてコトバ、妄想という概念が生まれて始めて出来たモンだろう。コトバは必要から産まれる。生活はいつだって、その二つを行ったり来たりのウラハラだ。
小野寺邦彦
#109 花のような一瞬 2015.9.30.WED
■今回の公演は分かりやすかった、と多くの人に言われる。評判、という点でいえば、最近の作品の中では飛びぬけて評判の良い作品となった。それは、まあ、そういう風に作ったので当然なのだった。なぜそうしたのかと言えば、稽古中、俳優に言われたからだ。「分かり易くして下さい」と。なんで?と聞けば「知り合いが観にくるから」。あっ、そうなの。うん、それじゃ、そうしよう、ということでそうしたのです。そんなことで?と言われれば、そんなモンである。
■「分かり易くして欲しい」といわれたとき、それは外的な制約として機能するな、とピンときた。普段、私は別に難しくしようと思ってるわけではない。全然ないのだ。ただ、難しい、とか、分かり易い、ということが自分の中に判断基準として一切ないだけのハナシだ。早いハナシがどっちでもいいし、もっというとどーでもいい。問題にしてないのである。ので、作ったものが「難しい」あるいは「分かり易い」と言われれば、ハァそうなのか、と思うだけであって、ソレは結果論に過ぎない。結果から逆算して芝居を作ることが出来ないので、どうしようもない。ただ、私以外の人間(外部)から「分かり易くして」という制約を与えられれば、それは何ほどのモノでもなく、受け入れることはできる。上演時間90分で作ろう、と自発的に思うことはないが、人から90分で作って、と言われれば忠実にそうする。制約がなければ、制約なく面白いことを考え、制約があれば、制約の中で面白いことを考える。そーゆうモノだ。それだけのハナシだ。そこに差を感じない。一切感じないのだった。
■わからないけれど、面白い。分かり易いけれど、謎はある。それはどちらも魅力的だし、結局のところは同じこしらえだ。でも、まあ、中身は同じでも、見た目を変えればグっと親しみやすくはなる。その親しみやすさに付け込んで懐に潜りこみ、無造作に謎をポンと放り込む快感は、確かにあるのだった。その手管を学べたことは、今回の芝居の大きな成果として、私に残った。きっと次回以降、また演出が変わるだろう。試してみたい表現が、いま、いくつもある。
■誘われて、渋谷で演劇を見た。いわゆる商業演劇。小劇場周辺の有名劇団、有名俳優、ちょっとしたアイドルなんかが座組としてまとめられた、商売がベースの芝居。幕が開けば、典型的な小劇場芝居。セリフの第一声を聞いた瞬間、既視感に思わず笑ってしまった。ハナシの筋、セリフ、発声、演技、演出。『小劇場』というプラカードをつけて博物館に飾っておける程のスタンダード。類型。予定調和。それを悪いとはまるで思わない。求められているものを、求められるままに100点満点で提供する。プロである。実際に客席は満員で温かく、笑いも起こるし、音楽では手拍子だ。千秋楽とあってカーテンコールはダブル、トリプルまで起こったがそれもまた、予定調和。役者は皆、抜群に上手く、セリフは明瞭。ハナシは分かり易く、テーマは何度もセリフで教えてくれる。何言ってるのかぜんぜんわかんなーい、と言われる私の芝居なんぞの水準とは雲泥の差である。これが!これが、『演劇』なんですよ~~!と芝居自体が言っている。まったく、自分の趣向との距離を感じざるを得ない。良くできている。レベルが高い。破たんがない。分かり易い。そしてつまらない。恐ろしくつまらない。それはきっと私の問題だ。問題は、私にあって、目の前の芝居にはない。求められているのは「コレ」なのだ。それはまったく正しいのだった。
■終演後のロビーにはグッズを求めて人の群れ。売り子を務める出演俳優たちの大きな声。首から身分証を下げたプロダクションの大人たち。ココで勝負することはできない。自分の場所を探さなくてはどうしようもない。いつも思っていることだ。それはそんなに絶望的なハナシではない。
■一日中部屋にいて、机に向かっていると、向かいの家の子供の声がよく聞こえる。一日に何度も『ただいま』という声を聞く。子供はよく家に帰ってくる。帰ってきて、またすぐに出かける。そしてまたすぐに、帰ってくるのだった。
小野寺邦彦
#110 オトコの芝居 2015.10.02.FRI
■…なんで?だってホントーに普通なのだ。特徴など微塵もない店なのだ。構内には他にも牛丼屋、カレー屋、天丼屋などがあるし、コンビニもあればドトールだってある。アイスクリーム屋もあれば成城石井すらある。だがその辺りは閑散としていて人気もまばら。一極集中。なぜだ。なぜ『箱根そば』一人勝ちなのだ。圧倒的なのだ。ほかにこんなに権勢を誇っている『箱根そば』があるか。ヨソでこんなに人が入っている『箱根そば』を知っているか。なんだ。何が起こっているんだ。あの店にだけ人が集まる理由があるのか。材料に使われているのは本当に蕎麦粉か?もっと別の、中毒性の高いブツではないのか。…そして遂にそれは始まった。この半月、隣にあったパン屋を吸収しての大改装工事が行われており、10月1日を持ってリニューアルオープン。待ってましたと詰めかける人人人の群れ。老若男女が列をなし、2倍以上に拡大された店内からは熱気が溢れ出る。そばだ。そばをよこせ。店の外壁に貼られたバイト緊急募集の貼り紙には高時給が提示され、思わず転職を考える。『箱根そば』に支配される街。恐ろしい陰謀が蠢いている気がしてならない。
■男性だけが大勢出る芝居、というのが苦手だ。そういう芝居の類型としてある『バカで美しい俺たち』という自意識が嫌いなのだ。男同士でじゃれ合う。バカをする。ケンカをする。いい年こいてこんなことやっちゃう俺たち。いつまでの少年のような俺たち。はしゃいで見せた後に、「どう?こんなオトコたち?美しいよね」ってチラっと目配せしてくるその態度がイヤだ。吐き気をもよおす。すぐに裸になるし。声が大きいし。宴会芸の世界というか。体育会系というか。例えば、そういう愚かしさが、破滅につながっていったり、人間関係の破たんを導いたりしてゆくという展開ならば興味がある。「男らしさ」を俎上に乗せる企みとしての男芝居。だが大抵の『男だけが出ている』ことをウリにした芝居は、バカやってる美しいオトコ達の永遠に続く少年性や変わらぬ友情なんぞを誇らしげに謳い上げて終わる。「いいよね~オトコ同士って。いつまでもコドモで。俺たち最高」って、全然よくないよ。それは甘えだ。甘えがいけないわけではナイ。ソレならソレで、甘えを自覚してトコトン甘えを追及すれば良い。甘え演劇。それなら観たい。でもそうじゃないのだ。
■オトコが少年性を発揮するのが良きこと、とされるのは、言うまでもなく、それを許容する周囲/周辺が存在するからだ。つまり、許されている。奴らはそれを充分に意識している。許されることを大前提とした上での「バカ」。その「許し」に便乗し、アグラをかく無自覚さが嫌いだ。芝居とナルシシズムは切っても切れない関係にある。ナルシシズム抜きにして芝居は作れない。ナルシシズムのない人、そもそも出演しないし。だからこそ、それは抑制されなくてはならないし、自覚し、コントロールする意思がなくてはヒトに見せてはいけない。
だって恥ずかしいじゃないか。すごく恥ずかしい。見ていて「助けてくれ」と叫びそうになる。見せるな、バカ、そんなモン。
芝居をする。人の目の前でする。それ自体がそもそもかなり恥ずかしい行為に違いないのだ。
そこを推して、あえてする。それなりの覚悟と緊張がなければ出来ないことだ。大人ならね。
それが恥ずかしくないのは、幼児だからだ。幼児は誇らしげに「お芝居」をする。だから子役の演技が嫌いだ。幼稚だからだ。
自らが「コドモ」であることで、受け入れられることが担保されているのを知っている、幼稚な精神の芝居だからだ。
許されることを前提とした居直りは表現ではない。幼稚であり、甘えだ。そういうワケで、甘えなのだった。
甘えは恥ずかしい。
つまりまあ、恥じらいのない表現は、私は嫌いだ。『男ですいません』だと。地獄に落ちろ馬鹿。
■ずっと前に書いた通り、人前でモノを表現したいという欲望と、恐れ多くてその場から消えてしまいたいという羞恥とがせめぎ合い、ギリギリで表現への欲望が勝っている状態の人、というのが私は好きだし、美しいと思う。晴れがましさを疑え。彼女は今、活躍している。バンド「うみのて」は完結したが大人気だ。まったくスゴい。ざまあ見ろなのだ。
■そんなわけでオトコたち同士の美しい演劇が苦手な私が、女性だけが出演する芝居を作ったのだった。面白かった。非常に刺激的で、そして二度とゴメンだとも思ったのだった。
小野寺邦彦